
伊江島の阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)(1901年〜2002年)さんが唱えていた、「命どぅ宝」のことを考えています。阿波根さんがこの語を盛んに使った背景について、『岩波新書』に書かれています。
「戦時中わしらはあまりにも命を粗末に考えていた。二度と戦争をおこさないためには、何よりも命を大切にすることである。(中略)戦前は『命は鴻毛より軽し』とか言って死ぬのが国のため、命を惜しむものは国賊だと信じさせられていた。敵に生け捕りされるのは不名誉。だから集団自決といって、自分たちで殺しあう。(中略)その頃はもう、死ぬ死ぬばっかりですよ」。
戦後は米軍が畑を取り上げ基地を拡張し、危険な軍事演習を行なう。阿波根さんは「命どぅ宝」を唱えながら、「戦わ」ないが「闘い」を続けました。「命どぅ宝」の元は、琉歌からです。
戦さ世んしまち(戦さの時世を終いにして) みるく世や やがて(やがて豊かな時が来る) 嘆くなよ臣下(嘆かないで、みんなよ) 命どぅ宝(命こそ大切だから)
この琉歌は「琉球処分」という侵攻を受け、琉球国の尚泰王(しょうたいおう)が那覇港から本土へ向かう時に詠んだことになっています。戦前に上演された劇、『首里城明け渡し』で、芝居役者が台本にはないアドリブでこの琉歌を付け加えたそうです。
「命どぅ宝」の琉歌は、琉球国としてはギブアップ、戦いをしない敗北宣言が込められているのです。それを、劇中の尚泰王に言わせました。しかも、芝居のセリフだったことを離れ、ほんとうに尚泰王が詠んだものと捉えるようになりました。
史実においても尚泰王は戦わなかった。士族、役人たちの中には「琉球国救済運動」がありましたが、武器を持っての戦いはありませんでした。庶民も闘わなかった。その意味で直接の戦死者はいなかったのです。
なぜ「戦わない」ことを多くが受け入れたのか。軍事力において圧倒的な差、それに経済力の差など様々な要因が考えられ、研究レベルの問題ですが、私はその要因の一つとして、当時の日本の方が人権において曲がりなりにも進んでいた、例えば建前であったとしても四民平等であったからだと考えています。
だから、沖縄学の父と言われる伊波普猷(いはふゆう)は「琉球処分は一種の奴隷解放だ 」と表現しました。「奴隷解放」とは言い過ぎですが、当時の日本の方が人権において進んでいたから、「解放」と言ってしまったのでしょう。
さて、戦さを避けた琉球国でしたが、その後たどった道は苦しい道でした。沖縄戦、サンフランシスコ講和では本土から切り離され、米軍の統治下に。それでも、日本復帰を目指しました。日本国憲法では人権が尊重され何よりも9条があったからでしょう。日本復帰したからといって問題がないわけではありません。「琉球処分」以後続いてきた差別、植民地意識(構造差別)が見え隠れします。そのため「闘い」は今も続くのですが、「琉球処分」のとき、国として武器を持って戦わなかった選択の方を、今も受け入れています。
そこで「命どぅ宝」が普遍性を持つかどうかです。ウクライナではどうか。ルハンスク州、セベルドネツクの攻防(6月中旬)では、毎日ウクライナ兵200〜500人も戦死しているとゼレンスキー大統領が述べていました。胸が痛む話です。
ウクライナのドンパス地方の人たちが「命どぅ宝」の思想を知ったらどう思うのでしょうか。受け入れるかどうかの鍵を握るのは、人権のことでしょうか。それとも沖縄の場合は特殊と言うでしょうか。あるいは戦争の道を選んだからには、「命どぅ宝」はもう通用しないのでしょうか。(富樫 守)