結局、ベアテの草案は生存権、教育権、勤労権、労働基本権などの条文にささやかな影響を及ぼすことはできたが、却下されたものの大きさに彼女は涙せざるを得なかった。
 こうしてできたGHQ草案に日本政府が激甚に反応したのは、1条(天皇)でも9条(戦争放棄)でもなく24条(家族生活における個人の尊厳や両性の平等)だった。それは日本の支配層にとって脅威以外の何ものでもなかったのだ。それは次の主張に象徴的だった。
 彼らにとって「家」制度は「我国古来の美風であり、東洋道徳の根幹」である。24条草案は日本の国体をゆるがすものだった。戦前、日本の軍国主義は天皇制の下に国民を支配して戦争に駆り立てる道具として「家」制度を利用してきた。それには女性の従属的地位が不可欠であったのだ。
 明治憲法下の日本社会は「家」制度と男女不平等を二つの柱にしていた。「家」制度は戸主が強い権限を持って家族を統率した。他の家族は皆、戸主の命令、監督に服さなければならなかった。「家」の財産と戸主としての地位(家督)は、長男が相続した。
 国家はこれを基盤として、徴兵・徴税制度を確立し、国民を支配した。戸主に対する家族の忠誠を天皇に対する臣民の忠誠に置き換え、幼い頃から忠孝の精神を叩き込むことで天皇制国家が成立していたのである。
 この中で女性はどのように位置づけられていたのか。女性は「不浄の者」であり、男性に比べて生まれつき劣等だとされた。「良妻賢母」たることが女性の本分であり、避妊や中絶はすべて禁止。子どもを産めない女性は蔑まれ、離婚の正当な理由とされた。明治憲法下では、結婚とは「家」と「家」の結婚であり、「妻は婚姻により夫の家に入る」とされていた。例えば、夫が死亡しても妻が婚家にとどまる限り、その戸主(亡夫の父など)の支配に服した。もしも妻が実家に帰れば、その子どもは婚家に残さなければならず、親権を失った。
 妻が従うのは夫だけではなかった。夫の父母・兄弟姉妹の世話も妻がすることになっており、「嫁」の立場は惨めだった。「ワラとヨメは打って使え」という家庭内の虐待を当然視する言葉もあった。
 妻は法律上、「無能力者」と規定され、自分自身の財産管理も許されなかった。夫が妻の財産を管理し、その収益権を持ち、子どもの親権は父親にあった。姦通罪も不平等だった。女性はいかなる場合でも処罰されたが、男性は人妻に手を出した時だけ、つまり他の男性の権利を侵害した時だけが問題とされた。
 もちろん女性に参政権はなく、「女に学問は不要」とする教育面での著しい不平等もあった。女性が権利を主張することは「わがまま」と断罪され、男女平等は「秩序を乱す不道徳」とされた。
 
 24条をめぐる議論が最終的に決着するのは、1946年3月4日午前2時過ぎのことだった。起草者のベアテの断固たる主張に、頑迷な日本政府がようやく折れた。24条が生まれた瞬間である。
 それは日本の進歩的な人びとと、少数の目覚めた女性から絶賛された。勝ちとったものはまさしく、女性たちの『人間宣言』だった。