この国は、一度決めた「国策」を止めません。懲りないというか、反省がないというか。歴史に学ばないというか。
国策の大失敗の一等賞は、明治維新以来のアジアへの侵略とそこから引き起こされていった太平洋戦争であったと思います。日本政府の指導者たちはアメリカにさんざん爆撃され、原爆も落とされ、ソ連が満州に攻め入ってやっと戦争の継続をあきらめたのでした。
少なくとも1945年8月15日の11時59分までは、日本国民の大半は政府の掛け声「鬼畜米英」「神州不滅」を信じていたであろうと思います。
その後、「鬼、けだもの」と呼んでいた米英軍に日本政府が最初にしたことは、占領軍兵士の性欲処理施設をつくることでした。8月15日から6日目の8月21日の閣議で「国際親善協会」をつくることを決めています。閣議決定前の18日に「日本婦女子を守りたい」と考えた近衛文麿が警視総監・坂信弥に対策を依頼。警視庁が飲食店や遊郭などの業者と話し合いを始めました。さすがに、特殊慰安施設をつくる費用を国家が出すわけにいかなかったので、当時の大蔵省主税局長であった池田勇人(のちの総理。大蔵大臣の時にチッソの操業を止めなかった)が、「1億円で大和撫子の純潔が守れるのは安い」と言って日本勧業銀行を通して融資しました。
この日本政府の変わり身にはあきれますが、8月17日に首相になった皇族の東久邇宮稔彦は「国体護持ということは理屈や感情を超越して固い我々の信念である。先祖伝来、我々の血液の中に流れる一種の信仰である」と言っています。
8月28日には進駐軍が神奈川にやってくるので、東京の大森海岸にあった小町園という老舗料亭を改造し「特殊慰安所」にしました。小町園には、100人以上の女性が働いていたそうで、1日に平均で30人の性的労働をさせられたようです。
小町園を皮切りに都内で25カ所、全国で40カ所以上。「新日本女性に告ぐ。戦後処理の国家緊急施設の一端として進駐軍慰安の大事業に参加する、新日本女性の率先協力を求む。ダンサーおよび女事務員募集。年齢18歳以上25歳まで。宿舎、被服、食料全部支給」という募集に応じた女性は、全国で4000人と言われています。
舌の根も乾かない内にとはこのことです。「本土決戦」を叫び、「一億玉砕!」を国民に呼びかけていた国家が、売春を奨励し喰うや喰わずの状態の国民(女性)を国体護持のために狩り出しました(特殊慰安施設は、GHQによって46年3月26日、閉鎖されました)。
「アメリカ兵に強姦され、八つ裂きにされて殺される」と言われて自爆していった沖縄の人びとの命は何だったのか。原爆で虐殺された広島、長崎の人びとは何だったのか。1945年8月15日の水曜日は、とても暑い1日だったでしょう。