第三章はアメリカの30年間について概観している。ソ連の崩壊=冷戦の終結のあと、欧米の自由主義は勝利を宣言したはずであった。しかしその30年で生まれた現実はなんだったのか。アメリカの工業生産の空洞化であり、アメリカがかつてほこっていた「模範としての影響力」の多くを失ってしまった現実であった。冷戦時代には、対抗モデルとしてのソ連があり、アメリカは、民主主義と人権を、ソ連圏に対する対抗概念として宣伝することができた。しかし対抗するものが存在しなくなった時、アメリカの民主主義と人権、そしてそれを支えてきた経済的な実態があらわになってきた。トランプはそうした時代の流れで大統領になった。トランプは、アメリカの科学技術が、ドイツや日本や中国に「模倣」され「強奪された」と信じていたし、そう主張し続けた。
終章は、中国における「模倣」の問題である。中国は19世紀以来、欧米中心の世界秩序に組み入れられてきたが、ヨーロッパが主導した近代国民国家の概念とは別のところで、中国は歴史を形成してきた。中国は東ヨーロッパやロシアとちがって、西欧的自由主義をそもそも「模倣」しようともしてこなかったし、「模倣」をしてきたことによる葛藤もないという。ただ西側の技術的手段の「借用」を行っているだけである。それは中国が世界における国際的影響力と名声を取り戻すことへの手段となっている。こうした中国の台頭は、英米・西欧の自由主義の「模倣の時代」の終わりを示しているとクラステフは述べる。西欧的自由主義が、「模倣」される存在でもなくなってしまっているのである。
西ヨーロッパに生まれ、近代的な国民国家を世界秩序として形成し、フランス革命等の啓蒙主義的な世界観と民衆革命をへて、いわゆる自由主義的世界観が今日の世界秩序を形成してきた。マルクス主義もあえて言えば、こうしたヨーロッパ生まれの啓蒙主義を出発点とした理念の一つだった。二一世紀の今日は、そうした西欧的自由主義の世界観そのものが問われている時代になっているのかもしれない。
この本には、日本のことはほとんど触れていない。しかし戦後七七年、アメリカ型の自由主義を「模倣」し、アメリカに従属することで自己の存在を維持してきたのが、今日の日本の支配層たちだった。日本社会は、これから何を「模倣」し、どういう社会をめざしていこうとしているのだろうか。 (おわり)