
「8・6ヒロシマ平和の夕べ」。今年の平和講演は「沖縄と本土、核」について三宅俊司さん(沖縄弁護士会)が話した。被爆証言は、世界に被爆の実相を伝えてきた小倉桂子さん。福島からは京都に避難している福島敦子さん。要旨を紹介する。(本紙編集委員会)
三宅俊司さん 政府、本土の人たちは「中国のミサイルが日本に届く」と言い立てる。一方、沖縄県知事は「覇権争いに危機感を持つ」と言っている。沖縄では、米日中の対抗から、沖縄が再び戦場にされるのではないかと不安と危機感がある。「沖縄を再び戦場にするな」という声が拡がっている。
初めて沖縄に行ったとき、広島は「父を返せ、母を返せ」、沖縄は「命どぅ宝」、それは一つと思っていた。いまは、違うのではないかと思う。広島も含め日本は、沖縄を犠牲にして成り立っていたのではないか。構造的差別と言われる問題をあらためて認識していかなければ。
高江で本土から派遣された機動隊員による「土人発言」があった。基地建設をめぐる本土企業の収奪や沖縄からの盗骨は、富と学知の植民地主義である。自己決定権が保障されなければならない。沖縄をどう学び、連帯するか。日本は沖縄をどのように利用してきたか。捨石作戦としての沖縄戦、日本の「独立」と沖縄の米軍への売り渡し。4・28は沖縄では「屈辱の日」だ。
核はどうか。沖縄は日本の「非核3原則」の隠れ簔に使われてきた。「復帰」前、1300発の核爆弾、ミサイルが置かれていた。1959年には米軍が誤発射している。いま新たにミサイル防衛群が作られ、琉球列島は再び戦場にされる危機にある。ホワイトビーチには米原子力空母が寄港できる。糸満市が原子力防災対策を出しているが、「(事故などの際)1キロ以内はコンクリート建物内に、1〜3キロは屋内に避難」である。核基地への対応はこの程度だ。「台湾有事」にどうするのかと言われるが、やりたければ本土で勝手にやってほしい。「軍隊は住民を守らない」。
被爆を海外に伝える
小倉桂子さん 海外の人たちに広島の被爆を伝えてきた。海外、欧州の核問題にかかわる人たちの多くは、当時から原爆と原発を一つの問題として捉えていた。私は何にも知らない、辞書を引きながらだった。1983年、ニュールンベルグで反核模擬法廷が行なわれた。法廷で被爆者が証人に立つ。それを契機に平和のためのヒロシマ通訳者グループを立ち上げた。案内人ですね。資料館だけではわからない、多くの被爆の実相、被爆者の苦しみを伝える。振り返ると45年にもなっていた。
静かに投下された原爆
福島敦子さん 福島県南相馬市から避難して伊方広島裁判原告、京都訴訟原告団などにかかわっている。地震、原発事故の直後は避難者、避難所は大混乱だった。原爆と原発事故をどう言えばいいのか…。原発の場合は「静かに投下された原爆」でしょうか。広島・長崎の被爆者の苦痛とともに、福島事故後の心身の苦しみが続いている。とくに子どもへの影響は多い。広島にきて「あなたたちは被曝者だよ」と言われたことが心に残っている。黒い雨裁判の勝訴に励まされた。「誰も責任をとらない原発」の実態を追及したい。
水戸喜世子さんは、子ども脱被ばく裁判を話した。