「F氏を救う会」が行った菊池事件現地調査の様子=1962年8月25日、国立療養所菊池恵楓園歴史資料館HPより転載

はじめに

1951年と52年に熊本県で起きた「菊池事件」を知っていますか。この事件を理解するためには、日本のハンセン病対策の流れを知ることが必要です。
ハンセン病は感染力、発症力の弱い慢性感染症です。思春期に発症することが多く、男性の患者が女性より多い傾向にあります。感染により、末梢神経・皮膚・眼が冒されます。手足の変形や顔貌の変化、失明に至る等の症状が現れるために、世界的に差別偏見の歴史があります。
1873年、ノルウエーのアルマウエル・ハンセンが菌を発見するまでは、遺伝病とされたこともありました。ハンセン病菌は、いまだに人口培養ができていません。
日本のハンセン病患者は、長く神社・仏閣の片隅で暮らしたりすることを余儀なくされていました。明治になり、諸外国からの批判や「国辱病」とする政府の考えのもとに、1907年「らい予防に関する件」という法律がつくられました。それにより、ハンセン病患者を全国5カ所の療養所へ隔離していきました。
社会からの徹底した排除でした。
映画館も喫茶店もない療養所。あるのは解剖台と火葬場。療養所という名の刑務所でした。治療ではなく、患者懲罰の場でした。患者の生活を支える作業も、患者が担わされました。男性には断種手術、女性には堕胎が強制され、産まれた子どもを育てることも許されません。
31年、らい予防法が制定され、患者の「絶対隔離・絶滅政策」が強化されていきます。そして「無らい県運動」が提唱されます。戦後も、特効薬プロミンが開発されたにもかかわらず、48年頃から再び全国的に「無らい県運動」が展開されました。「菊池事件」の発生した熊本県の菊池恵楓園では、収容定員が2100人という巨大な療養所になっていました。
事件は、まさにこの戦後「無らい県運動」最中の51年に、熊本県北部の村で発生しました。

死刑の執行

1962年9月14日の朝。無実を訴えていた男性が国立療養所・菊池恵楓園に設置されていた熊本拘置支所から、福岡刑務所へ護送されました。そのFさんを乗せた護送車は昼前に福岡刑務所に到着。所内にあった拘置区に連れられ、死刑執行の宣告を受けました。教誨師の立ち合いもなく、午後1時に絞首台にかけられ1時7分絶命。
法務大臣が死刑執行に押印したのが9月11日。Fさんの三度目の再審請求が棄却された翌日、押印からわずか3日でした。 事件の詳細は次回で。      (つづく)