1952年6月、Fさんが逃走した留置場=撮影時期不詳/恵楓園歴史資料館HPより転載

ダイナマイト事件
 
 1941年の一斉検診時の結果に基づき、Fさんは51年1月9日と2月24日に熊本県衛生課から菊池恵楓園への入所勧告を受けました。入所勧告に困惑したFさんは、九大病院や熊大病院を受診し、「ハンセン病ではない」という診断書を貰っていました。
 最初の事件であるダイナマイト事件。1951年8月1日午前2時頃、村役場で衛生課に勤めていたA氏宅でダイナマイトが爆発し、A氏と4歳の息子が軽傷を負います。2日後の8月3日、Fさんが逮捕されます。事件直後、Fさんが逃げていく後ろ姿を見たというA氏の証言があったからです。しかし、その時刻、Fさんは家族と就寝中でした。それに真夜中の真っ暗な山中、田舎道を逃げて行く人を、Fさんと断定できるでしょうか。
 裁判は、菊池恵楓園に設置された特別法廷で審理されました。アリバイも否定され、A氏が役場の衛生課に勤務していた時期に、「自分をハンセン病であると熊本県に報告したと思い込み、A氏を恨んで殺そうとしたのが動機」と認定し、1952年6月9日、懲役10年の刑を言い渡しました。
 
刺殺事件
 
 恵楓園内の熊本拘置支所に収監されていたFさんは1952年6月16日、洗濯作業中に逃走しました。一目家族に会いたいと家をめざし、山中をさまよいます。その逃亡中の7月7日、A氏が惨殺死体で発見されるという第2の事件が起るのです。身体中に20数カ所の刺し傷があり、凶器は「鎌」とされましたが、解剖の結果「短刀」になったり、「刺身包丁」とされたりしました。
 Fさんは、農作業用の小屋に隠れるなど逃亡を続けましたが、7月12日午前11時ころ警官に発見されてしまいます。警官はFさんを捕まえる時に、Fさんがハンセン病であるという意識(身体に触れると感染する)があったのでしょう。拳銃4発を放ち、1発がFさんの右肘に当たり、右前腕貫通銃創と尺骨の複雑骨折を負いました。痛みと意識混濁の状態のFさんに、警察は自白調書を作り上げていったのです。
「A氏は刺されて殺害された」のですが、凶器とされた刺身包丁には血痕の付着は認められず、逮捕時のFさんの衣服にも返り血は着いていませんでした。警察が証拠を捏造した可能性が多分にあります。    (つづく)