何かと話題だった国葬が終わりました。当日は安和琉球セメント桟橋での抗議行動でした。国葬儀礼の時間も、ダンプが土砂を運搬船に積み込んでいました。「国葬の時間は、休むのかな」と思っていましたが…。
 当日の国葬の状況は知る由もありませんでした。後日、菅前総理の弔辞の話題を耳にしました。弔辞に参加者が涙したとのことでしたが、その最後を締めくくる和歌はつい3カ月前亡くなったJR東海の会長・葛西氏追悼に安倍元総理が使った歌でした。コピペであると話題になっていました。
 

山縣有朋

菅前総理の弔辞の本音
 
 調べてみると、最後を締めくくる言葉は「あなたの机には、読みかけの本が一冊ありました。岡義武著『山縣有朋』です。ここまで読んだという最後のページは、端を折ってありました。そのページにはマーカーペンで線を引いたところがありました。印をつけた箇所にあったのは、いみじくも山縣有朋が長年の盟友とした伊藤博文に先立たれ、故人を偲んで詠んだ歌でありました。総理、いま、この歌くらい私自身の思いをよく詠んだ一首はありません」。
 かたりあひて 尽くしし人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ
 これは山縣有朋が、伊藤博文が朝鮮で暗殺された時に彼を偲んでつくった歌。山縣が、侵略した朝鮮の総督府に意見が対立した伊藤博文を追いやったために起こった事件であり、本来なら自責の念があるはず。
それはともかく、この山縣の歌を引用することから、安倍元総理、菅前総理の姿勢が見えます。山縣有朋は明治維新以後、天皇制の確立を目指し統帥権の確立、軍部大臣を現役武官制にするなど、戦争が出来る国にした人物です。
 
教育勅語と皇民化
 
 山縣は天皇制を完成させるために教育勅語を作り、人民を皇民に変えていこうとした人物です。学校教育で必要な批判力を育てるのではなく、勤勉と努力を強調する「二宮金次郎像」も山縣有朋を中心とする人脈によって建立されました。
 なぜ戦争を仕掛けたかの検証が十分であれば、山縣の和歌を引用することはなかったはずです。なぜ戦争をしたのかの反省力が足らない。そのため、二宮金次郎像も残りました。
 1972年「沖縄返還」の年、大城俊雄さんは名古屋から手配師に騙されて金沢に来ました。大城さんは戸板小学校の校長に、「金次郎像は皇国教育のシンボルとして、こどもたちを戦争の担い手として教育した。戦後の今も、このような像が学校に建てられているのはおかしい」と説明し、持っていた大型ハンマーで粉々にしました。
 大城さん一家は戦前に仕事を求めて本土に渡り、敗戦で父親が職を失いました。貧しさのため母親が沖縄に戻り、残された兄弟は小学校を長期欠席により学籍簿から消され、戦後の混乱から無戸籍者になっていました。正規の仕事にも就けず、明日の仕事のため手配師に頼り騙されることになったのでしょう。当時37歳でした。わが身の境遇を省みて、思わず山縣有朋や戦争に導いた人たちの残した遺物、二宮金次郎像を壊す行為に至ったと思えます。戦争による後遺症は、ずっーと残っているのです。
 

再び二宮金次郎

 その事件から50年の時が経ちました。第二次安倍内閣は2018年度から学校に道徳を科目として導入しました。早速、「二宮金次郎」が道徳科目の教科書に登場しています。
 軌を一にして、安倍元総理・菅前総理の二人は特定機密保持法(13年12月)、安保法制(15年9月)をつくり、重要土地規制法(21年6月)もつくりました。山縣有朋の政治を辿っていくように見えます。
 ところで菅前総理は、山縣有朋国葬の様子を知っていたのでしょうか。山縣有朋は1922年、2月1日に死去、2月9日に国葬で送られました。その日の状況は、「議会でも協賛した国葬だったのに、この淋しさ、つめたさは一体どうした事。…席も空々寂々、武と文の大粒のところと軍人の群れで国葬らしい気分は少しもせず、全く官葬か軍葬の観がある」と翌日の新聞に載りました。その20日ほど前、同じ日比谷公園で1月10日に死んだ大隈重信の「国民葬」が行われ、会葬者70万人が長蛇の列をつくったそうです。(半藤一利著『山縣有朋』)
 
市民は「冷淡」
 
 安倍元総理の国葬は、国民の56%が反対し賛成が38%(朝日新聞、9月12日)と、盛り上がりに欠けた国葬でした。よく似ています。山縣有朋を登場させるのは、符丁が似てふさわしくないと思うのですが菅氏は知っていたのでしょうか。山縣有朋の国葬に市民は冷淡だったにもかかわらず、歴史は戦争の道に歩みました。   (富樫 守)