パリ・コンコルド広場(革命広場)

フランス革命は「自由・平等・友愛」を掲げた市民革命であり、「法の下での人間の平等」「国民主権・言論・表現の自由」「財産権」などをうたった人権宣言が発せられた。しかしここにおける「人間及び市民」には女性は含まれない。市民革命の結果生みだされた憲法制定議会の場に、女性議員は皆無だった。
フランス革命に女性が決起しなかったわけではもちろんない。女性革命家オランプ・ドゥ・グージェは鋭く告発している。「女性は処刑台に上る権利をもっている。したがって演壇に登る権利もまた有するべきである」
彼女は「女性と女性市民の権利の宣言」と題したパンフレットを刊行し訴えたが、男性革命家たちは完全に無視し、彼女を反革命の罪でギロチンで処刑した。フランス革命の理念に女性解放の理念を組み入れたいという女性たちの悲願に対して、男性革命家たちはこのように「報いた」のである。
フランス革命から2年後、イギリスでメアリー・ウールストンクラフトが『女性の権利の擁護』という著作を発表した。フェミニズムの最初の宣言の一つとされるもので、代表的啓蒙思想家であるルソーの思想に含まれる男性中心主義と女性蔑視を鋭く批判した。
ルソーの「思想」とはどのようなものだったか。
「女性の教育は、男性の気に入り、役に立ち、愛され、尊敬されるものでなければならない。男性が幼い時は育て、大きくなれば世話を焼き、助言を与え、慰め …… こういうことがあらゆる時代における女性の義務であり …… 科学、語学、神学、歴史は女性には無用であるだけでなく有害である。彼女の尊厳は無名であるところにあり、栄光は夫の評価にある」(『エミール』)
時代的制約性があるといえども、「人間解放の思想」としてあまりにも貧弱極まる。
19世紀半ばに入って、フランスの社会主義者、フローラ・トリスタンたちは女性の参政権要求、労働時間の短縮、工場における保育所の設置、女性労働者への職業教育の要求などを公然と掲げ始めた。そして社会主義の観点からの女性解放論としてエンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』の登場となる。
女性たちは、社会主義を名乗りながら女性の解放を妨害するものと常に闘わなければならなかった。プルードンは「女性とは正義の荒廃である。女性は隷従状態のままにしておくべきだ …… 男女の能力比は3対2、女性の劣勢は治癒不能である」と公言した。
ルソーにしてもプルードンにしても当代一流の近代民主主義の思想家にしてこうである。女性解放の遠い夜明けに愕然とした女性たちも多かっただろう。しかし目覚めた女性は次々と現れた。

国際化する女性問題

1981年「女性差別撤廃条約」が発効し、日本政府も85年に批准した。国際的な女性問題への関心は大きく広がった。1995年、中国・北京で第4回世界女性会議が開催。この会議では「あらゆる分野における政策決定への女性の参画」「女性の社会参画を促進するためのマスメディアの変革」などとともに、「女性問題は人権問題である」ということがはっきりと掲げられた。さらに重要な国際問題として、いわゆる発展途上国における女性問題がある。
家事労働を含んだ労働全般で見ると、世界中の労働の3分の2は女性が担っているといわれる。しかし、女性が担っている労働の多くは賃金が払われることのない無償の労働や低賃金労働である。「女性の貧困」はグローバリゼーションの中で先進国も含んでさらに深刻化している。(つづく)