
1872年(明治5年)の旧暦10月2日、伊江王子一行は気持ちよく品川から船に乗り、10日に大阪に着き京都遊覧をし、21日に大阪を離れ、鹿児島に向かったのです。兵庫の和田岬を通るとき宜野湾朝保は、
行く船の和田の岬を廻る間は波にいざよへ夕月の影
と詠いました。気持ち良かったのでしょうね。
琉球王から
日本国服従へ
政府の魂胆は、まだ彼らには分からなかったようです。やがて1875年(明治8年)、明治政府は琉球国に対して清国への冊封(さっぽう)・進貢の禁止、明治年号の使用などを求めるようになりました。大騒動です。琉球国の体制が揺らぎます。琉球国は、中国皇帝から王であることを認められ、そして貿易ができるという冊封関係でやってきました。中国の年号を止め、明治の年号を使うことは日本国に服従したことになります。伊江王子一行に非難が集まりました。
結局、副使の宜野湾朝保が責任をとって三司官という役職を辞任するまでになりました。三司官とは琉球国の政治トップの役職です。後に「琉球処分」と呼ばれる「琉球併合」に至る、琉球国滅亡の歴史が始まるのです。日本の鉄道史で最初の乗客の一人となった伊江王子一行でしたが、後味が苦いものになりました。
国内人類と
同じではない
もう一つ、尚泰王が華族にも列せられた話ですが、当時の日本の左院(立法院)は、異議を申し立てました。「琉球の人類は国内の人類と同一に看てはならない」と反対します。
今となっては、大変に興味深い認識です。明治の元勲と言われた当時の大蔵卿、井上馨は琉球に対し「かの酋長を呼んで不臣の罪を責め…」と言ったそうです。琉球国は、ちょっと劣った「外藩」の認識でしょうか。この意識が「学術人類館事件」につながるのでしょう。
1903年、大阪博覧会が開かれた時、「人類館」に「アイヌ、台湾高砂族、琉球人、朝鮮人、支那人、インド人、ジャワ人」として、32人が民族衣装を着せられ、「展示」されるという「事件」につながりました。
当時、在京の沖縄知識層は猛反発しました。しかし、「我を生蕃アイヌ視したるものなり」という沖縄側からの批判は、「差別を討つ」ものでもありませんでした。これが「日本人になりたい」と涙ぐましく努力していく歴史を刻み、かつ悲劇を招くことになっていったのです。
今回はここまで。次の機会に、琉球国滅亡の経過を述べたいと思います。
(富樫 守)