はじめに

 今年8月2日、ナンシー・ペロシ米下院議長は、中国政府の猛烈な抗議を押し切って台湾訪問を強行した。これに対して中国側は、同月4日から9日にかけて台湾周辺での大規模な軍事演習を実施した。
 8月のペロシ訪台によって、台湾海峡をめぐって軍事衝突が起こると予想した専門家はいなかったし、実際にそうならなかった。しかし、アメリカが執ように中国に対する挑発を続けていけばどうなるだろうか。それでも大方の予想は、「中国が簡単にアメリカの挑発に乗るような行動はとらないだろう」というものであろうし、実際、そのように事態は推移していくのだと思いたい。
 ウクライナの時も、みんなそう考えていた。「まさかあのプーチンが、やすやすとアメリカの挑発に乗るようなまねはしないだろう」と予測することは、従来の安全保障の常識からすれば、至極まっとうなことだった。その「まさか」が起こったのはなぜか。それを解明することは、ウクライナから8000キロメートル離れた東アジアで生活する私たちにとっても無駄なことではないだろう。とくにアメリカとの軍事一体化を進める日本の住民にとっては。
 連載第1回は、プーチンがウクライナ侵略の口実とした集団的自衛権について考える。第2回では「安全保障政策の常識」を検証する。第3回では、多元的安全共同体という考え方を紹介する。第4回(最終回)では、「ASEAN方式」と呼ばれる地域形成のあり方に着目して、平和構築の可能性を探ってみたい。
 
 プーチンは「異常」なのか
 
 なぜウクライナで予想外の事態が発生したのだろうか。その理由として三つの可能性を考えてみよう。
 1番目は、ロシアの戦争指導部が「異常」だったという可能性だ。
 2番目は、従来の「安全保障政策上の常識」を覆すような「想定外の事態」がロシアとウクライナをめぐって発生していたという可能性だ。
 そして3番目は、そもそも「安全保障政策上の常識」と言われていたものが、かなり怪しいものだったという可能性だ。
 まず、ロシアの戦争指導部の「異常性」について検討してみよう。
 プーチン大統領は、2月24日の侵攻直前にロシアの国営テレビで放送された演説(注1)の冒頭で、「ロシアの重要な安全保障問題」であり「根源的な脅威」とは、「NATOの東方拡大、その軍備がロシア国境に接近している」と述べていた。「NATOの東方拡大」が何を指しているのかは議論のあるところだが、いずれにせよNATOの軍事的脅威がロシアとウクライナの国境、ドンバス地方に迫ってきているとロシア側が認識していたことは間違いない。
 プーチンは、「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」の救援要請を受けて、「8年間、ウクライナ政府によって虐げられ、ジェノサイドにさらされてきた人びとを保護」し、「ウクライナの非軍事化と非ナチ化を目指していく」ために「特別軍事作戦」の実施を決定したと発表した。プーチンはまた、「ロシア国民を含む民間人に対し、数多くの血生臭い犯罪を犯してきた者たちを裁判にかける」ことにも言及した。その一方で、「私たちの計画にウクライナ領土の占領は入っていない」と表明した。
 「ウクライナの非軍事化と非ナチ化」とは具体的に何を指しているのか。「非軍事化」がウクライナの完全な武装解除、非武装化をさしているとすれば、それは現実的ではない。だとすれば、「非軍事化」とは〝ウクライナがロシアにとって軍事的脅威とならないこと〟、つまりウクライナにNATO加盟を最後的に断念させるということになる。
 演説の「特別軍事作戦」の計画の中に「ウクライナ領土の占領は入っていない」という文言をそのまま受けとめれば、ウクライナの「非軍事化」や「非ナチ化」を行うのはロシア軍ではなく、ウクライナ政府が自らの手で行うということになるのだろう。
 また演説では「数多くの血生臭い犯罪を犯してきた者たちを裁判にかける」と特定の個人・集団に対して報復をすることを予告していた。その後の経緯からすれば、報復の対象の一つが、ウクライナ国家親衛隊に所属するいわゆる「アゾフ大隊」(正式にはアゾフ特殊作戦分遣隊)であったことは明らかだろう。ドネツク州のマリウポリにあるアゾフスターリ製鉄所に立てこもっていたアゾフ大隊の兵士たちは頑強に抵抗を続けていたが、ロシア側のメディアが報じたところによれば、最終的にウクライナ軍とアゾフ大隊の兵士ら計2439人が投降し、そのうち1000人が尋問のためロシアに移送された(うち一部が捕虜交換で帰還)。一応これで、「数多くの血生臭い犯罪を犯してきた者たちを裁判にかける」という目的は部分的に果たされたことになる。
 
 侵略戦争の正当化
 
 さて、演説では「計画にウクライナ領土の占領は入っていない」と明言していたので、特別軍事作戦の目的は、ウクライナ東部・ドンバス地方のロシアへの併合ということであった。演説の通り、10月5日、プーチンは「ドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国、ザポロジエ、ヘルソンの併合に関する法律」に署名した。
 これは国連の「侵略の定義にかんする決議」(1974年)に照らすまでもなく、あからさまな侵略戦争である。ところが、2月24日の演説でプーチンは、「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」の救援要請があったため、国連憲章第51条」に基づいて集団的自衛権を行使したのだとその正当性を強弁した。
 あまりにもとってつけたような話だが、そこには「西側諸国もこれまで集団的自衛権の行使を口実にして侵略戦争をおこなってきたではないか」という言い分がはっきりと見て取れる。実際、第2次大戦終結からソ連崩壊までの冷戦期(1947年~1991年)には集団的自衛権は「違法な侵略の代名詞」(松竹伸幸、注2)となっていた。戦後初めて集団的自衛権を行使したのはソ連のハンガリー侵攻(1956年)だった。64年のイギリスによるイエメンへの軍事介入では、イエメンの独立運動を弾圧するためにイギリスは「南アラビア連邦」をでっちあげた。そして、そのかいらい政権の要請を口実にして、南イエメン民族解放戦線に対する武力攻撃を開始したのである。
 ベトナム侵略戦争(64年)では、アメリカはジュネーブ休戦協定(54年)を無視して北緯17度線以南にベトナム共和国を樹立し、このかいらい政権への攻撃を集団的自衛権行使の口実にしようとした。ところがベトナム民主共和国(北ベトナム)による攻撃を論証することができなかった。そのため、北ベトナムが南ベトナム解放民族戦線を支援(「北部からの要員の侵入や武器の供与など」)していることが「武力攻撃に当たる」とこじつけて、北ベトナムへの爆撃(北爆)などを正当化したのだ。
 こうした違法な侵略戦争や軍事介入を行ってきたのは、米・英・仏・ソの国連常任理事国である。そこでは「集団自衛権の行使」という形式をととのえるために、かいらい政権のデッチあげや武力攻撃の解釈拡大などやりたい放題のことが行われてきた。今回のウクライナ侵攻でプーチンは集団的自衛権行使の前例を、そのうさんくささまで含めて忠実に再現したのである。  (つづく)
 
(注1)
 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220304/k10013513641000.html(注2)
松竹伸幸「集団的自衛権の真相」(平凡社新書、2013年)