ウクライナ軍の増強

 2014年にロシアがクリミア半島を占領したとき、ウクライナ側の抵抗はほとんどなかった。また、同年8月、ウクライナ東部のドンバス地方をめぐってロシア軍とウクライナ軍が衝突したときはロシア軍の圧勝に終った。この当時のウクライナの軍事力は「存在しないに等しい」(河東哲夫、注3)ものだったのだ。しかしその後、ウクライナは急速に軍備の増強を進め、現在では20万人という巨大な兵力を擁するまでになった。ウクライナ軍はアメリカやNATOの支援を受けて、最新の兵器で武装し、NATO軍との合同軍事演習もおこなっていた。つまり、ウクライナはNATOに加盟こそしていないが、NATOとの軍事的な一体化を強力に進めてきたのである。こうした事情をロシア側も熟知していたわけだから、開戦前にウクライナ側が「当面はNATO加盟の意志はない」というメッセージを発していたとしても、なんだかんだと理屈をつけて侵攻に踏み切ったと考える方が自然なのかもしれない。
 侵攻からすでに半年以上が経つが、ロシア軍はいまだにウクライナ東部地域の制圧に成功していない。NATO諸国からの武器援助を受けているウクライナ軍に苦戦を強いられている。とくに侵攻当初のキエフ攻略戦ではかなりの損害をこうむっている。こうした状況を見ていると、ウクライナ軍が順調に軍備の増強を進めていけば、NATOに加盟していなくても、単独で東部の親ロシア派地域を軍事的に制圧する能力を獲得するのは時間の問題だったのかもしれないのである。つまりロシアの戦争指導部は「やるなら今しかない」と判断していた可能性もあるのだ。
こうしてみると、ロシアの戦争指導部に特筆すべき「異常性」が見られるわけではない。むしろ、「5月9日の対独戦勝記念日までに、ロシアは戦争を決着させるつもりだ」とか「それまでに戦局を打開できないようだったら、核兵器を含む大量破壊兵器を使用する可能性がある」とか「プーチン大統領は、戦勝記念日の演説で西側諸国に『終末の日』を警告すると見込まれる」(注4)と大騒ぎをしていたイギリスを筆頭とする西側メディアのほうこそ、その異常さを際立たせていた。

すべては「想定内」で推移していた

 それではロシアとウクライナの間に想定外の事態が発生していたという可能性について考えてみたい。想定外と言えば、そもそも2014年のロシアによるクリミア併合が想定外の事態だったわけであるが、それから8年間にわたって両国間の戦闘は間断なく続けられてきた。2015年には停戦合意となる「ミンスク㈼」に両国は合意したが、昨年初め、ゼレンスキー大統領はこれを履行しないことを表明していた。これにたいしてロシア軍は同時期にウクライナとの国境付近に部隊を集結させていた。今年2月に入るとドイツやフランスが、プーチンに侵攻を思い止まるよう説得に当ったが功を奏せず、そのまま2月24日を迎えた。
 この8年間でウクライナは順調に軍備増強を進め、それに応じてロシアは危機感を募らせていた。ここでは想定外のことは何も起こっていない。ロシアは原油、天然ガスの値上がりで、経済的には潤っていた。侵攻前のプーチン大統領の支持率は60%台でそれまでと比較すれば高い水準ではないが、支持率が低下しているとは言えないレベルだった。「ロシアがデフォルトに陥った」とか、「プーチン政権が崩壊した」ということになれば想定外の事態といえるかもしれないが、多少の景気の浮沈や政権への支持率の変化は日常的な出来事だ。
 ウクライナについても事情はそれほど変らない。確かに2019年に政治経験がまったくない俳優出身のゼレンスキーが圧倒的な支持を得て大統領に就任したことは注目すべき事件ではあった。彼は就任当初は、東部地域問題を解決するために、ロシア側への歩み寄りを見せたが、結局失敗に終った。これも想定内の出来事だった。
したがってこの8年間で唯一、専門家たちにとって想定外の事態だったのは、2月24日のロシアのウクライナ侵攻だったのだ。ロシアとウクライナは想定どおりに互いの軍事的緊張を高めていたのだから、やがて軍事的衝突にいたると考えるのが普通である。ところがほとんどの軍事専門家たちはロシアがウクライナに軍事侵攻するとは予想しなかったのである。その理由は一つしか考えられない。従来の安全保障政策上の常識が「単なる思い込み」であり、実際には何の役にも立たなかったということである。

根拠ない願望

 2月24日以前に、ロシアのウクライナ侵攻の可能性に否定的な見解を示していた論者たちがその根拠として持ち出していたのは次のような点である(注5)。
 第一には、ロシアがウクライナに侵攻すれば、ヨーロッパ全体を巻き込んだ第三次世界大戦を引き起こすことになる。そのようなリスクをロシアが冒すとは考えられない、というものだ。しかし戦争は始まった。それは根拠のない願望に過ぎなかった。
 第二には、ロシアとアメリカの双方は、レッドラインが「ウクライナのNATO加盟」であることを了解している。そして現在、ウクライナはNATOに加盟していないし、当面、加盟の見通しはない。レッドラインを越えていない限りロシアの侵攻はない、というものだ。実際には、こうした思い込みによって、すでにレッドラインが越えられていたことに気がつかなかった。ロシア政府は当然のことながら、アメリカ政府もレッドラインを越えていることをわかっていた。ところが専門家たちは、その現実を直視しなかった。なぜか。もしも現実を直視すれば、それまで積み上げてきた安全保障理論が役に立たないガラクタだったことを認めなければならないからだ。
 第三には、軍事侵攻による代償の大きさだ。ロシアの国際的な信認は決定的に傷つくばかりか、軍事費の負担に加えて西側からの制裁による経済的なコストも大きい。したがってロシアは侵攻に踏み切らないだろうというものだ。
 心配するまでもなく、ロシアにたいする西側諸国の信認は、2014年のクリミア併合によってすでに地に墜ちていた。またロシアはすでに8年間にわたって経済制裁を受けている。さらなる制裁の強化によって、「音を上げるにちがいない」と思いたいところだが、考えてみてほしい。これまで経済制裁によって倒れた「独裁国家」があっただろうか。あるいは制裁によって民主化した国家があっただろうか。むしろ制裁が長期化すれば、その国の経済は「自給自足」へと向かわざるを得ない。そうなると他国への経済的依存度が低くなり、かえって制裁に対する「耐性」を獲得することになる。結局、経済制裁は住民の窮乏化を生み出すだけであり、下手をすると制裁を課している国への憎悪をかき立てるだけに終る可能性がある。
 むしろ今回のケースでは、ロシア産天然ガスの供給制限などでロシア側から逆制裁を受けている西欧諸国の方が悲鳴をあげている。西欧諸国は制裁への「耐性」がないため、初期的な打撃はロシアよりもはるかに大きいのだ。このように見てくると、「安全保障上の常識」とされてきたものがかなり怪しいものであったことに気付かされる。       (つづく)
 (注3) https://www.youtube.com/watch?v=p3O81fpfk8Q
(注4)https://jp.reuters.com/article/ww2-anniversary-russia-idJPKCN2MS1C0
 (注5)https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=70381?site=nli