ウクライナ チェルノブイリ近郊の廃墟

 「日本の原子力と〝付き合い〟50年」「なぜ原発に反対するか」。今中哲二さんが話した(「さようなら原発集会」11月20日、伊丹市内)。今中さんは、京大複合原子力科学研究所・研究員を務めている。(要旨/編集委員会) 
 
原子力のうさんくささ
 
 1950年広島生まれ。母親は被爆者。原爆は悪いが原子力に未来を感じ原子力工学科に進んだ。その後、原子力開発のうさんくささに気付いた。
 京大の原子炉実験所に就職してしまったが「原発を進める研究は積極的にやらない」ことにした。以来、伊方原発行政訴訟の手伝い、スリーマイル、チェルノブイリ事故、JOC臨界事故が起こり、広島原爆の放射線量評価にも参加。20世紀の原子力開発の不始末をきちんと記録しておこうとしていたら、福島第1原発事故が起こった。
 
原発に「安全」なし
 
 79年スリーマイル2号機は冷却に失敗し、炉心が溶融した事故。圧力容器と格納容器がなんとか持ちこたえ、最悪の事態を免れた。「想定外」の大事故が本当に起きた。フェイルセーフ、フールプルーフ(注)という設計は成り立たない。冷却水がなくなると炉心は溶ける。「原発は安全か危険か」という問題設定そのものが不可能なのだ。
 86年4月、チェルノブイリは「出力暴走事故」。4号炉の核分裂コントロールに失敗し爆発炎上、原子炉と建屋が一瞬で破壊された。ついに起きた最悪の事態だった。村や町、地域社会が丸ごと消滅する。その被害規模は放射線測定器で測ることはできない。99年、東海村JCO臨界事故の「直接の原因」を、当時の原子力安全委員会は「作業者の行為にある」としたが、それはちがう。原因は、「JOC、動燃、安全規制当局の安全文化の欠如」にあったのだ。
 
放射能汚染と向きあう
 
 3・11までは、「日本でもチェルノブイリのような事故が起きる可能性がある」と、警告していればよかった。しかし実際に事故は起こった。セシウム137の1平米当たり1万ベクレル以上の地域が面積にして本州の約1割となった。私たちは50年、100年にわたって放射能汚染と向き合わざるを得なくなった。
 放射能汚染との向き合い方では、「余計な被曝はしない方がいい」と「ある程度の被曝は避けられない」という相反する選択にどう折り合いをつけるかが問われる。私たちには「1μシーベルトたりとも嫌だ」という権利はある。危険度を見積もり、それを減らす対策を講じ、個人の判断や社会的合意の形成において、各々が「自分で納得できる判断」を下すための手助けをすることが研究者の役割だと思う。
 福島後、「どこまでの被曝をがまんするのか」に一般的な答えはない。一方、国や自治体は「事故は終わった」かのように、汚染地域に戻る政策を進めている。国や東電には、被災者のいかなる選択に対しても支援する責任がある。
 日本(政府)の核政策は「原爆を作る能力(プルトニウムを扱う技術)を備えておく」ことにある。私たちは、原子力を利用するべきではない。
(注)【フェイルセーフ】機械や装置が故障しても、安全状態になるように働く仕組み【フールプルーフ】人がミスをしようとしてもできないようにする工夫