1963年の「狭山事件」から59年、石川一雄さん83歳。32年もの獄中生活を強いられた。今日まで一貫して無実を訴え続け、東京高裁に第3次再審を申し立てている。
もう一度狭山事件を勉強しようと、佐木隆三の『ドキュメント 狭山事件』を手にした。
筆者の佐木隆三自身、1972年の沖縄返還阻止ゼネストの時に、機動隊員が死亡した事件で誤認逮捕され警察の汚い捜査を経験している。
読んで初めて知ったが、石川一雄さんは大の野球好き。地域のチームでキャッチャーをしていた。顧問をしていたのが、狭山署交通係の関源三巡査部長である。関は石川さん逮捕後、石川家に度々立ち寄り着替えなどの世話をやいている。物証の一つである万年筆が発見される6月26日の2日前に、石川さんの家に上がり込んでいる。
もう一人、石川さんを冤罪に陥れた人物に、埼玉県警本部の刑事調査官・長谷部梅吉警視がいる。長谷部は県警の幹部であり、周りの人間がみんなペコペコするのを見た石川さんは「弁護士より偉い人物」と思い、長谷部の「やったと言えば10年で出してやる」という言葉を信じ、“男の約束”を守ってしまった。
狭山事件が起こる8年前の1955年7月、埼玉県の熊谷市で18歳の女性が殺害された事件が発生した。容疑者として捕まったのは、知的障害者の青年だった。警察は柔道の技をかけて青年を拷問にかけ、ウソの自白をさせてしまう。裁判でも警官が傍聴に行き、青年を監視、脅かし続けた。警察は徹底して弱者を陥れる。この事件では弁護人の努力で真犯人が見つかり、青年は助かった。
石川さんは、東京拘置所に収監されていた三鷹事件の竹内景助に教えられたり、面会にきた右翼の荻原祐介の説得により、控訴審の第1回公判で弁護人にも相談せずに裁判長に「私は無実」と叫んだ。約10年に及ぶ東京高裁での裁判で、寺尾正二は5人目の裁判長。寺尾は、石川さんに死刑判決を宣告した一審の浦和地裁の内田武文と司法官試補(現:司法修習生)の同期生。寺尾は、部落差別問題に理解があるように見せかけて、現地調査や証人調べを却下し、1974年10月31日、差別判決を下した。
その日の夕方。私の学校では、なんとなくざわついた雰囲気だった。民青が多かったが、「共産党が狭山事件から手を引いた」という。部落研の人たちが「石川さん、石川さん」言っていたのはなんやったんや、と思った。
佐木隆三は76年10月15日に、東京拘置所に石川一雄さんと5分間面会した。石川さん37歳、佐木が39歳であった。石川一雄さんが一審で死刑判決を受けたのは、1964年3月11日。東日本大震災と同じ日付。石川さんにとって本当につらい日だ。(こじま みちお)