
長く弾圧を受けてきたキリスト教でしたが、明治期になると、信仰の自由も認められ、流罪になっていた信者達が、長崎の浦上地区に戻ってくることも始まりました。そして浦上地区にキリスト教の聖堂をつくろうという機運がうみだされてきました。その聖堂建設がはじまったのが1888年(明治21年)。場所は浦上地区の高台にあった庄屋・高谷家の敷地跡。そこは隠れキリシタン摘発のための「踏み絵」をさせられてきた場所でした。それから37年間の長い工事期間をへて浦上天主堂は完成しました。東洋一の聖堂と言われていたそうです。しかし、早やその20年後にはアメリカ軍の原爆投下で、天主堂は粉々に瓦解してしまいました。
市民たちの取り組み
浦上天主堂は、長崎の浦上地区の中心部の高台に建っていた教会堂です。米軍が投下した原爆の爆心地からは、直線距離で1㎞もないような直近です。被災直後の写真を見ても、ほとんどの建造物が一瞬にして燃え尽くされたようなところでした。石造りの教会もがれきの山となっていました。しかし、その荘厳な石造りの建造物が崩落した姿や、瓦解したマリア像は、原爆の非人間性と犠牲の大きさ=戦争犯罪を、誰の目にも明らかに訴えかけるものがあり、被爆直後から多くの写真撮影がなされ、一生懸命に記録に残す努力が積み重ねられてきていました。長崎の戦後復興の過程で、この浦上天主堂を原爆遺構として後世に残し、歴史的な記憶と記録として保存していくべきと言う声が、当時の長崎でも強くなってきていました。ところがそれが戦後13年目にして、完全に解体・撤去されることに決まってしまいました。それはなぜか? これがこの本のテーマです。
永井隆博士の燔祭説
戦後数年後に長崎の原爆被害の実相を綴った本が出版されました。それが永井隆博士の『長崎の鐘』です。1949年に出版されてから、すぐに10万部を販売しました。当時としては驚くべきベストセラーです。永井博士は、それ以外にもいくつかの著作を残し、長崎の被爆体験を著述してきました。ローマ教皇の正式な使者の訪問があり、昭和天皇の全国行幸の過程でも見舞いに立ち寄ったといわれています。長崎の有名人となりました。
永井隆は、1951年に死亡して以降も、長崎において名誉市民の称号を授与されたり、記念館ができたりしていました。私も子ども心に、その名前は記憶していました。
永井隆はカトリック信者として、独特の論理と訴えで長崎の被爆者を描きあげてきました。それは長崎の被爆者、しかもキリスト教信者の犠牲こそが、「神が欲した」「犠牲の羊」であったというものです。浦上のキリスト者たちは、「神の思し召し」として指名され、その犠牲となったことによって、天皇は終戦の「聖断」を下し、平和がもどったのだという論理でした。永井隆の著作『長崎の鐘』に収録されているキリスト者の合同慰霊祭(45年11月23日)で述べた弔辞の最後は次の言葉でしめられています。
「浦上が選ばれて燔祭に供えられたる事を感謝致します。この貴い犠牲によりて世界に平和が再来し、日本の信仰の自由が許可されたことに感謝致します」
すべては神の名によって合理化され、なおかつ浦上のキリスト者が犠牲の祭壇にのせられたことに感謝していました。
被爆直後の破壊し尽くされた浦上の丘の上で開かれた合同慰霊祭に集った人びとは、神の名によって語られる親族たちの犠牲の意味づけをどう聞いたのでしょうか。その時の思いを想像すると胸が痛くなります。しかし、この時、合同慰霊祭に集まった人びとは、この巨大な犠牲(一瞬にして何万人もの非戦闘員を殺戮した例を見ない戦争犯罪)について、どう考えたらいいのか、気持ちをどう整理すればいいのかも、なんら判断できない時期だったのだろうと想像します。その時の永井の言葉に多くの参加者は、ただただ感極まって涙するしかなかっただろうと思われます。
永井隆博士については、現在でも偉人として評価されていますが、長崎の歴史学やキリスト教の視点から、強く批判する論考も出ています。また作家の井上ひさしも批判していました。(秋田 勝)