キャンプシュワブ・ゲート前で座り込みに参加した=22年11月11日、沖縄県名護市

『鎮魂の地図』から

昨年3月、「沖縄写真展」を開催し、宜野湾市在住の写真家、大城弘明さんの「戦跡、ガマ、基地、辺野古」を展示した。事前に届いた写真集『鎮魂の地図』。数多くの「沖縄戦・一家全滅の屋敷跡」がモノクロで撮影されていた。「戦後、いつごろまで残されていたのですか」と大城さんに問い合わせた。「いまも、ですよ」との答え。
いくつか「祈念の地」として残されているのではない。旧摩文仁村(現糸満市)字米須では、戦争時257戸のうち62戸が全滅した。1冊の写真集が「一家全滅の屋敷跡」である。近所の人や遠縁の人たちが祠を祭りお参りしているという。

喜屋武岬から荒崎へ

写真展の後、「実際に訪ねてみたい」という声が寄せられ、11月に「沖縄、戦跡、基地」という旅になった。私自身は、「チョウが舞う、喜屋武岬から荒崎への道」(1997年撮影)という1枚の写真に強い印象を受けた。屋敷跡とともに、「喜屋武岬、荒崎海岸、そこへの道」を訪ねてみたかった。年寄り、女性、子どもたちが米軍に追われ海から艦砲射撃を浴び、日本兵からも撃たれ無残に亡くなったのか。
ツアーは女性6人、男性3人。「初めての沖縄」という子育て世代の女性たちも加わり、富樫守さん、大城弘明さんに案内してもらった。沖縄には何度か行ったが、沖縄サミット反対デモ、辺野古反対10万人県民大会、6・23魂魄之塔前の反戦集会、辺野古座り込みなど。それぞれの地を訪ね、巡るのは初めてだった。

沖縄の基地は他人事か

昨年11月11日(金)。那覇空港に着き、真っ直ぐ辺野古、浜のテントへ。カヌー隊の金治明さんから話を聞く。テントの看板には「6801日」とあった。大浦湾側の埋め立てには深い軟弱地盤があり、9000億円超の巨費を投入しても完成は見通せない。そもそも普天間基地の代替ですらない、新基地建設である。
大浦湾の北側から静かな海と、工事を遠望する予定だったが、ダンプが入る3時前になりゲート前へ。初参加の女性たちは道路の向かいから、座り込みや排除の動きを見守る。看板は「3050日」目、この日は40人ほど。私たちも数人で加わった。アピールや三線と歌を続ける中、警察が「立ってください」と繰り返し、無言で抵抗しながら座る。20分ほど、「穏やか」といえば穏やかな攻防が続き、その間、数10台のダンプは止まる。「目的達成までやるのが座り込み」とネットで揶揄する声があるそうだ。
「攻められたらどうする。(沖縄に)基地は必要」と言う人も少なくない。「自分のところでなければいい、not in my backyard 他人事」。沖縄に多くの基地を押しつけている私たちと(日米)安保。「抑止力論」がじつは平和に反する虚構であることに、考えを致さなければ。沖縄のことでなく「本土」の私たちの問題だ。「辺野古からの手紙」のうみさんと、少し話した。

「オスプレイ反対」

11月12日(土)。朝の短い時間、読谷村役場前の「自治の郷」の石碑、役場の庁舎にかけられた「政府は日米地位協定を根本的に見直せ」「オスプレイ配備反対」の横断幕、憲法9条を銘板に記した石碑などを巡る。少し歩いた道のそばに、木々の緑に囲まれ「不戦の誓い」「児童生徒」「老人クラブ」の碑が並ぶ。女性の一人は、「役場の碑文に心をうたれた」と話していた。
9時開館の佐喜真美術館へ急ぐ。丸木位里・俊さんの「沖縄戦3部作」などの展示を見た後、「6月23日慰霊の日」に合わせられた屋上の6段、23段の階段、その日の夕陽が差し込む直線。普天間基地のフェンスに食い込むように建てられた美術館が屋上からわかる。

「米軍支配サー」

糸満への途中、米軍大型ヘリが墜落した沖縄国際大の校舎に寄った。校舎はきれいに再建されているが、普天間基地へ進入する低空飛行の危険を思う。富樫さんは、「低空から墜落し校舎に引っかかったから、パイロットはケガで済んだけどね。すぐに米軍が縄張りし、県警も入れない。すべて米軍支配サー」と皮肉った。
基地に阻まれ真っ直ぐに進めない沖縄の交通事情をあらためて思った。(竹田雅博)