台湾有事が煽られています。今回は「琉球処分」に絡む琉球と台湾の、ある関係です。1871年10月、首里政庁に年貢を納め、那覇から帰途につく宮古行き2隻、八重山行き2隻が北西の烈風に吹き流され、4隻は散り散りに漂流しました。
宮古への1隻は帰島したものの、残り3隻が漂流。そのうち八重山の1隻は11月19日にベトナムに漂着。地元民、役人の努力で蒸気船に引っ張られ、中国福州の琉球館まで送られました。
残る八重山、宮古島行き各1隻は台湾に漂着。このうち、46人が乗っていた八重山船は先住民に遭遇、清国人(中国人)に出会い情報を得て彼の船に乗り移り、琉球館に送られます。
66人が乗っていた宮古船の方は、先住民の集落に迷い込むことによって犠牲者が出ました。結局、清国人の商人、地域の有力者、通訳によって12人が助け出され広州の琉球館に送られ合流。漂流した人たちは琉球の船で1872年6月、那覇に着きました。
来琉の鹿児島県庁の役人は、彼らから話を聞き県に報告します。報告を聞いた大山県参事は、「問罪の軍隊を出して征伐し、皇威を海外に張ることを望む」と政府に上申。これに、琉球側は、「この事で日本が介入することは清国に対し差し障りがあり、征伐を取りやめてもらいたい」と鹿児島の在番奉行を通して鹿児島県庁に懇願します。
台湾での事件ですから、清国政府が犯人を法に基づいて処罰するべきなのですが、明治政府はこの事件をしめたと思ったのでしょう。1874年2月、「我が藩属たる琉球人民が被害されたのを報復するのは、日本政府の義務である」という理由で台湾「征討」を閣議で決定。3年も前に起こった事件を利用しようというのです。

琉球国は「藩属」扱い

明治政府は、琉球国を「藩属」と扱っています。その源流は1872年、明治維新成就の慶賀使派遣にありました。旧暦9月3日に東京に着き、12日に日本初の鉄道に乗せてもらった翌々日、皇居に赴くやいきなり琉球国王を藩王にすると言われました。この意味を当初わからなかった使節団ですが、だんだん明治政府の意図がわかり始めます。藩王を戴く琉球国は、日本国の藩属(外藩)になっていたのです。
1874年4月、命令をうけた陸軍中将・西郷従道など3600人が長崎に集結し、5月、台湾を目指して出発します。台湾は清朝の国なのに、勝手に上陸し先住民の部落を襲い屈服させます。
戦後処理は、清国の反発もありイギリスが仲介、日清両国互換条款が結ばれ「日本の出兵を日本国属民保護と認めること。被害難民に賠償金を出すこと。今後生蕃の取締りをすること」が決められます。
この事件の処理を通じて、明治政府は翌75年、琉球に対し清との冊封・朝貢関係の廃止と明治年号の使用などを命令。琉球処分は1879年。琉球国併合に至る経過もありますが、今回はここまで。(富樫 守)