
浦上天主堂の解体
原爆遺構として浦上天主堂を保存しようという市民の声は無視され、解体・撤去されてしまう。
長崎は、米軍の原爆投下によって、おそろしい被害を被りましたが、それでも残った人びとは長崎の復興に力を注ぎ、がれきを片付け、生活を再建していきました。原爆の犠牲が大きかった浦上地区も長崎の近郊地域として普通に復興していきました。
戦後5年目頃から、浦上天主堂の原爆遺構を保存しようという取り組みがはじまり、長崎市の公的な諮問委員会などで、天主堂の遺構保存を求める決議が継続的にあげられていました。カトリック教会との協力を進めながら、長崎市としても努力していくという流れだったようです。
ところが戦後10年目にカトリック長崎教会の山口司教が、そしてその次の年には田川長崎市長が、アメリカの招待により長期間のアメリカ訪問が実施されました。表向きの理由は、山口司教の場合は聖堂再建のための寄附集めであり、田川市長の場合は、長崎市とミネソタ州セントポール市との姉妹都市提携の記念にということでした。
セントポール市には、アメリカでも有名なカトリックの大聖堂があり、カトリック教会にとっては意味のある町でした。当時の田川長崎市長は、渡米前は浦上の原爆遺構の保存にもとても積極的な姿勢を見せていたそうです。ところが、渡米後には、「かたくなに」がれきとなった浦上天主堂の撤去を主張するようになったといいます。どういうことがあったのでしょうか? これはアメリカの政治的な工作の結果なのか?
米国の政治的な意図
この本では、著者がアメリカの公文書館に赴き、当時の資料を丹念に探し出していく場面も述べられています。歴史的な文書をきちんと保存して、外国のジャーナリストや研究者にも公開しているところには、アメリカの政治文化の成熟度を感じさせますが、当時の新聞や行政の記録を調べると、アメリカ側の意図がやはり透けて見えるところがあったようです。アメリカ政府の明確な意図を読み解いています。
アメリカ政府は、当時から世界に向けて、たえず日常的に大規模に、政治的な工作を多角的におこなっていました。たとえば「フルブライト留学生」は、アメリカが総がかえで、留学生を世話するプロジェクトでした。アメリカ政府に対して協力的な若者を世界中につくっていくプロジェクトです。
また長崎とセントポール市の姉妹都市提携は、日米の都市間での姉妹都市提携の第1号でしたが、それもアメリカが戦後の世界をどう支配していくのかという点から発想された取り組みだったと思われます。
長崎に原爆遺構が残っていないと言うことは、決して歴史の偶然でもなく、長崎市民の素直な思いのあらわれでもありませんでした。そこには強力な「政治の力」が働いていました。アメリカが、戦後世界を統制・支配していくために、米軍は広島と長崎に原爆を投下し、甚大な被害を広島市民と長崎市民に強制しました。そして、その後も日本を取り込み、利用していくために、ありとあらゆるものすべてを利用していったと言えます。
私たちは、決してこのような歴史を消し去ることなく、その事実の積み重ねの中から後世に伝えるべき事柄をしっかりと「記憶と記録」をしていくことが必要なのだと思います。(秋田 勝)
※写真掲載については長崎大司教区の許可をいただいています。