
地域住民がアクターとなる
前回は、NATOをはじめとする軍事同盟や集団安全保障体制(国連)にかわる安全保障概念としての「多元的安全共同体」とその具体例としてのASEANをあげ、ASEANの最大の問題点が「ルールの実効性に持続力がないことである」(湯澤武、注12)というところまで述べた。
もしもASEANを支えている多元的安全共同体が存在するとするならば、この弱点を克服する方策も自ずと明らかになるであろう。具体的には、ASEAN域内のコミュニケーションの多様化と延長とによってコミュニケーションの密度を高め、相互理解を深めていくことである。
その場合の主要なアクターは、地域で生活する住民である。地域が平和であるということは、単に戦争が起きていないという状態のことではない。「安全保障」の名のもとに人びとが軍事監獄のなかに置かれていたとしたら、その状態は平和の名に値しないであろう。平和であるということは、その地域に住む人びとが「生きるに値する世界がそこにある」ということにほかならないからだ。
ASEAN域内の多元的安全共同体が発展して、東南アジア地域から北東アジア地域へコミュニケーションの総延長を拡大し、奥深く浸透していくことができれば、東アジアにおいて下からの平和を構想することも可能になるだろう。
次の一文は「多元的安全共同体に支えられたASEAN」という仮説が単なる絵空事ではないことを示している。
「ASEAN10カ国の個別国家のパワー・ベースは、日本、中国、韓国の三大国のそれに遥かに及ばない。これらの国々が小国連合を組んで一束になって三大国を吸い寄せ、周辺が中心を巧みに操作するという国際制度の新しい型は、17世紀中葉に成立した主権国家体系(ウエストファリア体系)の歴史で初めて出現したシステムと言っていい。……それは地球システムのなかの一つの地域にポスト・ウエストファリア体系の出現を刻む歴史的事象であり、21世紀における地域安全保障システムの新しいモデルとなる可能性を秘める」(山本武彦、注13)
ここで山本が言う「21世紀における地域安全保障システム」こそは、多元的安全共同体に支えられた域内諸国連合ということであろう。
安全保障論と革命戦争論
従来、日本の新左翼運動は安全保障問題について、その批判を展開することはあっても、安全保障を積極的に論じることはほとんどなかったように思う。
新左翼の革命戦略はレーニン流の「帝国主義戦争を内乱へ」であり、帝国主義戦争の革命戦争への転化であるため、帝国主義諸国による安全保障政策は、革命戦争に対する予防反革命ということになる。つまり新左翼にとっては、安全保障は突破し、粉砕すべき対象でしかなかった。先進国のプロレタリアートと被抑圧民族人民による革命戦争は、戦争の元凶である階級社会を廃絶するための戦争であり、それは「戦争をなくすための戦争」として正当化された。「正戦論」の復活である。第一次大戦後の「戦争の違法化」も、戦争を国家の主権的権利として、国家の戦争を肯定した19世紀的な無差別戦争観の否定という意味で、一種の正戦論の復活であった。だとすれば、革命戦争論はそれと表裏をなすものだったとも言えるだろう。つまり「戦争の違法化」の階級的欺瞞性を「鉄と火と」をもって暴き出すものこそが革命戦争だったのだ。
こうした革命戦争路線は、核戦争の危機にも対応できるはずだった。米ソの核戦争は、米ソ両国人民の革命的内乱と世界各地の革命戦争(闘争)が連携することで阻止できると考えられた。これですべてがうまくいくはずだった。
だが、革命戦争路線には大きな見込み違いがあった。すでにグラムシが明らかにしていたことだったのだが、実は、先進資本主義国のブルジョア政府をプロレタリアート人民の革命的内乱によって打倒することは限りなく不可能だったのだ。これですべてがうまくいかなくなった。
となれば、新左翼運動の内部でも、もう少し安全保障に関する議論が活発になっても良いのではないかと思われるが、現状はそうなってはいないようだ。確かに、伝統的な安全保障に関する議論においては、その主要なアクターは国家である。その国家を当面の打倒対象としている左翼としては議論がしにくいのだ。しかし、地域住民を主要なアクターとする安全保障政策が可能であるということになれば、まったく違った光景が広がっていくであろう。
米中という新旧覇権国の交代がハードランディング化(水野和夫)しつつある中で、東アジアにおける安全保障政策が体制の維持ではなくて、現状を変革するための手段に転化するかもしれないということでもある。本稿で論じた地域住民を主体とする多元的安全共同体の構想にその可能性を見ることはできないだろうか。
政治のフェミナイゼーション
東アジアの平和を下から構築する道が、コミュニケーションの多様化にあるとしたら、それはここ10年間で著しい発展を遂げたように思う。香港、台湾、韓国、タイ、ミャンマーなどの若い世代による新たな民衆運動は、中央集権的な組織形態を取らずに大規模な運動を実現したという意味で、まさにコミュニケーションの多様化を象徴する出来事であった。
これまで、「東南アジア」や「北東アジア」は実在したとしても、「東アジア」という概念には実体がないと言われてきた。ところが香港、台湾、タイの若者たちは、緩やかな政治同盟を形成し、その影響力をミャンマーやインドにまで拡大している。彼らはそれを「ミルクティー同盟(#MilkTeaAlliance)」と呼んでいる。ネーミングの由来は、「みんなミルクティーが好き」というただそれだけだ。それは従来の男性中心主義的な政治運動とは、明らかに一線を画している。彼らが実践しているのは、政治のフェミナイゼーション(女性化)なのだ。そうすることで若者たちは、東アジアの地域的連携という複雑で困難な課題を軽やかに乗り越えようとしている。
「ミルクティー同盟」にも課題はある。特に、その反権威主義的な政治姿勢が反中国ナショナリズムに回収されてしまう可能性は否定できない。
一方その中国本土で、若者たちの注目すべき動きが伝わってきている。「寝そべり主義者」といわれる不特定多数の若者たちである。彼らの主張をまとめた『寝そべり主義者宣言 日本語版』(注14)が昨年初めに発行されたので、手に取った方もおられるだろう。
その書き出しが素晴らしい。「眼の前で起きていることにうんざりして、首を横に振りながら吐き気を催している若者たちは、もうすでに寝そべっているのだ」。中国社会のそこかしこで寝そべっている若者たちは、いまや無視することのできない存在として、共産党指導部を気味悪がらせている。彼らは寝そべることによって、「時間の秩序そのものを拒絶する」のだという。それは時間を支配する資本主義的な秩序を拒絶することである。そして彼らは高らかに宣言する。「寝そべることこそが立ち上がることであり、立つことは這いつくばるということである」と。彼らが「寝そべり主義者の盟友」として筆頭にあげているのが「女性とセクシャルマイノリティ」だ。「我々は彼・彼女らへの搾取と偏見、不平等な婚姻と家庭、性関係を拒絶する。我々は父権制存続のための出産を拒絶する」と。
このラディカルな呼びかけが、東アジアの若者たちの間でこだましていけば、文字通りの東アジアの民衆運動が新たに動き出すかもしれない。それはこれまで誰も経験したことがなかったものとなるだろう。 (了)
(注12)湯澤武「ASEANの対南シナ海外交の効用と限界 ルール形成の取り組みを中心に」
(注13)山本武彦「安全保障政策 経世済民・新地政学・安全保障共同体」(国際公共政策叢書18、日本経済評論社、2009年)
(注14)「寝そべり主義者宣言 日本語版」(RYU/細谷悠生・訳、素人の乱5号店、2022年)