平和の塔が建つ喜屋武岬から荒崎海岸を望む

糸満市で写真家の大城弘明さんと合流する。さとうきび畑や雑草地を縫いながら最南部の喜屋武岬、荒崎海岸へ。広がるさとうきび畑は、米兵や米軍機の銃火から逃れる陰になっただろうか。喜屋武岬に建つ「平和の塔」前の広場から、人びとが海に降りようとした細道を下る。茂みや倒木に覆われた険しい小道は雨でぬかるみ、案内の大城弘明さんが「危ないから、先はやめましょう」と戻る。糸満では、ときどき雨に見舞われた。
富樫さんから以前に聞いた山之口獏(詩人)の「亜熱帯」。沖縄出身、戦前東京に遊学した山之口は「お国は?」「ずっと向こう、南方」「南方とは?」「亜熱帯」「アネッタイ!」と、その心情を詠っている。「琉球処分」「アネッタイ」の辺境(今ふうにはリゾート地か)。「沖縄への構造的差別が続いてきた(いる)。明治政府によるのが第1の琉球処分、沖縄戦と講和条約が第2、返還協定が第3、辺野古決定は第4だ。節々ではなく琉球処分はずうっと続いているんだ」(知花昌一さん)と聞いたことがある。

全滅した家の跡で説明を聞く

全滅した家の跡の辛さ

写真展で見た轟壕に案内してもらった。今は階段になっているが、戦争の当時は崖を降りるようだっただろう。中は広く深く、天井は低い。ライトを消すと真っ暗。女性の一人は「ガマの中で胸が張り裂けそうに…。ここでわが子を守り、生きなければならなかったお母さんたちを思うと、辛くて…」と話していた。
住宅地のあちこちに、急に草地が広がる。普通に通ると空き地に見える。そこが「全滅した家の跡」だった。「なぜ、逃げられなかったの…」という質問に、大城さんは「米須の住民は二つのガマだけでも78世帯、220人が亡くなった。ガマの入り口に陣取る日本兵が、住民に捕虜になることを許さなかったため、巻き添えになって全滅させられた」と答えた。
平和祈念公園を急ぎ巡る。祈念館は修学旅行生が溢れ少し落ち着かなかったが、生徒たちも何か得て帰っただろう。
     (竹田雅博)