昨年、NHKのEテレで『こころの時代~宗教・人生~①〝カルト〟問題の根源をさぐる、②宗教といかに向き合うか』という対談番組が放映され、さまざま反響を呼び、本にもなった。
どうして旧統一教会などのカルトが生み出されるのか、宗教はどうあるべきかのテーマであったが、その中で宗教にも絵画でいう「①近景(私や家族の問題領域)、②中景(文化や地域コミュニティの領域)、③遠景(聖なる領域・神の啓示)の考え方を援用すると、教義の絶対化の原理主義やカルトは中景がきわめて痩せていて、中景が分厚くないと宗教間対話が成立しない」と指摘されていた。
グサッときた。
左翼的「革命」運動に当てはめれば、遠景は〈権力掌握・政治革命から社会革命〉ということになるだろうか。原理主義やカルトは中景がきわめて痩せているとの指摘は、「これまでの自分たちのことではないか」との思いに捉われる。この中景=文化や地域コミュニティのなかに、来るべき社会の社会関係、経済関係、人間関係の萌芽が政治革命への陣地として形成されつつあらねばならないし(グラムシの〈陣地戦〉)、支配階級も被支配階級も「このままではやっていけない」というとき、政治革命の成立の可否は、この〈陣地〉の大きさ、確かさによって決まるものではないかと思った。
そこが根深くないと、政治革命がスターリン主義のようにとんでもない独裁を生み出す悲劇をも起こしかねない。つまりは、単なる革命戦略や路線だけの問題ではない、革命主体の豊かな形成そのものの重要性に関わることだと思われる。 
ふと中村哲さんのアフガン用水路建設で60万人の命を救うという行動が思い浮かぶ。ミュニシパリズムや協同組合運動なども、この中景での非常に大切なものではないかと思った。(知)