
西ベルリン
ハンス=クリスティアン・シュトレーベレという人物をご存じでしょうか。この人は2022年8月29日、ゴルバチョフと同じ日に亡くなりました。ゴルバチョフの死は日本でも大きく取り上げられたと思いますが、シュトレーベレの死は日本では知られていないと思います。
彼は社会民主党員でしたが、ドイツ赤軍派(1968年結成)にシンパシーを感じて、彼らに「わが同志よ」という手紙を送ったために党を除名されました。彼は弁護士として赤軍派の弁護に当たりました。有名なアンドレアス・バーダーやウルリケ・マインホフを直接弁護した人です。『バーダー・マインホフ・コンプレックス』(邦題『バーダー・マインホフ 理想の果てに』)という映画をご覧になった方があるかもしれません。そこでは、ホルスト・マーラーという弁護士だけがクローズアップされていて、シュトレーベレは出てきませんが、実は彼も重要な役割を果たしていました。
バーダー・マインホフ・グループは悲劇的なテロ活動に走り、二人はそれぞれ刑務所の中で自殺します。彼らを弁護していたシュトレーベレ自身も、「自分は何をやってきたのか、そしてこれからどうしたらいいのか」と自問することになります。
彼の活動拠点は西ベルリンでした。当時は東西冷戦時代で、西ベルリンは東ドイツの中で壁に囲まれた離れ小島のようなところで、米・英・仏によって占領されていました。占領地域なので、ルフトハンザ機は西ベルリンには飛べませんでした。西ドイツとは異なる法的地位にあるため、西ベルリンには徴兵制がありませんでした。
そのため徴兵制を嫌う若者たちの多くは西ベルリンを目指しました。西ベルリンとはそういう独特な政治風土を持った地域だったのです。
シュトレーベレは「ドイツの秋」と呼ばれたドイツ赤軍派の挫折を目の当たりにして、「暴力に走ってはだめだ」と痛感し、まずは日刊紙の発行に着手します。「タッツ(taz)」(1978年創刊)という新聞です。
日刊紙「タッツ」
「タッツ」は当時のドイツの新聞に比べると、一回りも二回りもサイズが小さく、レイアウトも文章も砕けた感じで、市民が近づきやすい新聞を目指しました。タッツの社屋は、「シュプリンガー」という右派新聞社の目の前に作られました。現在のタッツは発行部数が5万部ほどで、経営は楽ではありません。「フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング」が約20万部、南ドイツ新聞が約30万部ですから、だいぶ見劣りはしますが、それでもずっと発行は続いています。
また彼は同じ年に、西ベルリンで「民主主義と環境保護のためのオルタナティブ・リスト」という党派を立ち上げます。
マルクス主義者、毛沢東主義者、エコ原理主義者、フェミニスト、平和主義者等々が共同で議会進出を目指し、その後の緑の党につながっていきます。1984年、この西ベルリンの「オルタナティブ・リスト」は、執行部が全員女性ということをやってのけます。これは日本の政治運動の家父長的な肌合いとはずいぶん違います。
左翼平和主義者
シュトレーベレは、「左翼平和主義者」と自称しました。今でこそ、ドイツには「左翼党」という政党が存在しますが、東西冷戦時代の西ドイツで「自分は左翼だ」と公言するのには結構勇気が必要でした。ですが、彼は一貫してその立場を崩しませんでした。
また、緑の党に安住するということもなかった。本来、緑の党は、エコロジー、社会性、底辺民主主義、非暴力という四つの原則を掲げていました。非暴力とは要するに戦争反対で、「NATOからの一方的離脱」とか、「連邦軍の解体」を主張していました。しかし90年代のユーゴ内戦を経て、1998年に連邦与党になると、緑の党は「平和の党」としての性格を大きく変えました。99年、NATOのユーゴ空爆にドイツは加担しました。日本にはまだ憲法9条があるので実戦に参加することはありませんが、ドイツには「侵略戦争の準備」を禁じた基本法26条があるだけです。99年、ユーゴ空爆でドイツは第2次大戦後初めて実戦に参加したのですが、シュトレーベレはもちろん大反対しました。その後ドイツはアフガニスタンにも派兵します。「ドイツの安全はヒンズークシ山脈でも守られている」とは当時の国防大臣の台詞ですが、社会民主党と緑の党の政権の下で、ドイツの国外派兵は常態化していきました。シュトレーベレはそれにも反対します。
小選挙区で勝つ
ドイツの選挙は2票制です。小選挙区ごとに候補者を選ぶ第1票と、州ごとに比例代表で政党を選ぶ第2票の2票制です。そして、基本的に第2票の方が、議席配分にとって重要です。比例代表では、政党の候補者リストの上位に行けば行くほど当選の確率が高くなりますが、一貫して国外派兵に反対していたシュトレーベレは、緑の党の執行部にとって煙たい存在でした。そこで彼は2002年の総選挙で、絶対当選できないところまで候補者名簿の順位を下げられます。そうなると小選挙区で勝つしかない。
その時の選挙ポスターはとてもユニークなものでした。以降13年までシュトレーベレは、ベルリンにある第83小選挙区で当選を重ねていきます。今年のウクライナ戦争をめぐって、ドイツはウクライナへ武器を供与していますが、彼は死ぬ間際までこうした緑の党のあり方に反対を貫きました。
彼の死後の10月15日、緑の党の党大会がボンで開かれましたが、そこではウクライナどころか、サウジアラビアへの武器輸出まで容認されました。緑の党のアナレーナ・ベアボック外相は、「自分たちは平和の党だから武器を輸出するのだ」と発言していました。「緑の党はついにここまで倒錯してしまったのか」と私は思うのですが、この党で平和の良心を貫いてきたハンス=クリスティアン・シュトレーベレという人物はずっと記憶にとどめておくべきだと思います。
(つづく)