
「時代の転換点」
2月24日にプーチンがウクライナに攻め込んだとき、21世紀に入って20年も経つのに、このようなあからさまな侵略戦争を、しかもヨーロッパでやるのかと多くの人が衝撃を受けたと思います。私も例外ではありません。
侵攻から3日後、日曜日にもかかわらず、ドイツの国会が開かれ、そこでショルツ首相は「時代の転換点なのだ」といって軍事予算について新たな公約を掲げました。今年の軍事予算で既に560億ユーロがついていましたが、それにプラスして1000億ユーロ、14兆円をいきなり連邦軍にあてがい、軍事予算をGDP比2%以上にしていくというものです。
そしてウクライナの軍事支援もどんどんやる。今のドイツの政権は、社会民主党と緑の党とネオ・リベラリズムの自由民主党の三つの政党からなる連合政権です。3党による連合政権は戦後初めてのことです。ショルツ首相は社会民主党です。
社会民主党はウクライナの武器輸出についてはかなりためらっているというか、火に油を注ぐような状況を生みだしてはいけないという姿勢でした。それに対して自由民主党と緑の党が一緒になって「何をグズグズしているのだ」と激しい首相批判を展開したのです。それに引きずられるように、ウクライナへの武器供与が行われています。
今までドイツは軍事面で主導的な役割を担うことを極力避けてきたわけですが、今回は「NATOの枠組みの中でドイツは主導的な役割を担う」と、ヨーロッパの防空システムを構築するイニシアティヴをとっています。
武器輸出・徴兵制
ドイツは戦前から世界に冠たる武器輸出国です。つい1年前まで、緑の党のベアボック外相は、「サウジアラビアやカタールのような人権侵害国に武器を輸出するなどとんでもない」と言っていたのに、政権与党になったら「自分たちは人権の党だから武器を輸出するのだ」と倒錯したことを言い出しています。背景には、ウクライナ戦争によるエネルギー危機があるわけですが。
ドイツは2011年に徴兵制を中断しました。ただし、この決定に軍縮の意味合いは全然ありません。ギリシャに端を発したユーロ危機の中で、ドイツは随一の経済大国として、他国に対し「福祉を削れ」とか「教育費を削れ」と緊縮財政を強要していました。ギリシャなどは本当に悲惨な状況になっていくわけですが、ドイツは他国に予算を削れと言っている手前、自分も何か模範を示さなければならないということで、徴兵制を中断して志願制に転換したのです。「やる気のある若者に来てもらい、効率のよい軍隊にする」というわけですが、そんなに簡単にやる気のある若者が志願してくるわけではない。そこで2015年、「連邦軍魅力増進法」という名前の法律まで作っています。何年か後に「自衛隊魅力増進法」なんて法律ができたらなんとおぞましいと思ってしまいます。
今回のウクライナの事態を受けて、ドイツがすぐに徴兵制に復帰するということはありませんが、フランク=ヴァルター・シュタインマイアー大統領やキリスト教民主同盟は、ボランティアを義務化する提案をしています。ドイツでは高校を卒業すると大体1年間ボランティアをやるのが普通で、病院や老人ホームと並んで連邦軍もボランティア先の一つなわけですが、そのボランティア自体を義務化すれば、いやでも軍隊に行く若者も増えるだろうという計算です。
そういうわけで、ドイツでは軍事の論理が前面に出るようになりました。2022年8月、2年半ぶりにドイツに行ったのですが、本当に街のあちこちに連邦軍のポスターが貼り出されているのでいささか驚きました。
東ドイツの反体制運動
こういう状況では、反戦運動、平和運動は立場が苦しくなります。ドイツでは長年、「武器なしに平和を創る」が平和運動のスローガンでした。これは東ドイツの歴史に根差しています。東ドイツが強権国家だった時代、プロテスタントの教会を中心にして民主化運動の拠点が、小さいながらもあちこちに作られていました。そこでのスローガンが、「武器なしに平和を創る」でした。
それが単なるスローガンに終らずに、見事に実践されたのが1989年です。結果的に「ベルリンの壁」が崩れるわけですけれども、すでに強権支配の矛盾があちこちで噴き出していました。そういうなかで6月4日に中国の天安門事件が起こり、人民解放軍の戦車が人民を押しつぶしたわけです。これを見た東ドイツを初め東欧の人たちは、中国のようなことを繰り返してはいけないと意識します。私は決して中国の学生を批判するつもりはありませんが、彼らが人民解放軍を挑発した面もあったと思います。もちろん、だから「戦車で轢いていい」というわけではありません。
天安門事件を見た東ドイツや東欧の人たちは、強権国家に弾圧の口実を与えてはいけないと強く決意をします。東独で人民警察がデモ隊に殴りかかろうとすれば、その警官に灯りのともったろうそくを渡す。あるいは花を一輪わたす。そういう行動を通して、デモ隊は「暴力反対」を実践していったのです。
89年10月9日
ライプツィヒ
転機になったのが、1989年10月9日のライプツィヒのデモです。民主化運動が高まって、このときは本当に流血の「中国式解決」になるかもしれないということで、学校は午前中で休みになり、子どもたちは絶対に中心街に行ってはいけないと先生から言われました。ライプツィヒの武装民兵隊には出動待機命令が出ていました。本当に何が起こるか分からない状況でした。このときクルト・マズーアというライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者を初め、6人の文化人・党人が市内のあちこちの教会などで訴えました。「東ドイツは絶対に改革を必要としているけれども、それを求める運動が暴力に走ってはいけない」と説いて回ったのです。実際、この日のライプツィヒのデモは7万人が集結して、完全に非暴力で終わりました。ソ連はこれに対し戦車を出せなかった。東独当局も弾圧する口実を持たなかった。10月9日を契機に、ライプツィヒの民主化デモは加速度的に広がっていったのです。
「武器なしに反体制運動が成功するわけがない」と思われるかもしれませんが、少なくとも1989年の東ドイツ、東欧の経験は「暴力を使わないからこそ強い」という実例を示しました。ですから「武器なしに平和を創る」というのは、ドイツの平和運動にとって決して絵空事でも何でもなかったのです。ところが今回のウクライナ戦争を迎えて、「より多くの武器によって平和を創る」という立場が強くなってしまいました。
ドイツでは毎年復活祭の時期の金土日曜日に、復活祭平和行進が行われます。今年は、「武器なしに平和を創る」という平和運動本来の立場の人たちと、「ウクライナに武器を」という、ウクライナからの戦争難民を初めとする人たちが真っ向から対立する状況が生まれてしまいました。「武器なしに平和を創る」と訴える人たちは、「お前らはプーチンの第五列か」と思い切りなじられました。「武器を使わない」ということが、道徳的に劣っているかのような物言いがされるのです。マスコミ報道は、それに拍車をかけています。ウクライナの悲惨な状況を見れば、彼らを助けたいと思うのは人間として当然の感情です。問題は、「だから多くの武器を与えなければいけない」と思わせる報道が当然のように繰り返されていることです。(つづく)