プロテスタント教会

ドイツのプロテスタント教会は国家権力と非常に強い関係にあって、現状を変革しようとする勢力に非常に敵対的でした。今回も、政府がウクライナに武器を供与すると言うと、教会も基本的にこれを追認するという状況にあります。メディアもロシアを打ち負かすためにひたすら政府の尻を叩くという風情です。いずれにしても、ドイツでは一般的に「軍事同盟」と聞くと、自分たちはそれに守られていると、思考停止になってしまう。
日本でも、「アメリカが日本を守ってくれている」という神話の力が強いと思いますが、ドイツでも「NATOが自分たちを守ってくれている」という意識がすごく強い。この「神話」の解体はすごく重要だと思います。
そういう逆風の中で、「武器なしに平和を創る」立場の人たちは、ロシアやベラルーシの脱走兵や兵役拒否者、ウクライナでも兵役拒否者がいるのですが、そういう人たちを支援しています。プーチンが9月21日、部分動員を始めてから、何万という若者がロシアを去っていますが、この人たちの支援も重要です。
ウクライナ政府は、ロシアを出国する若者たちに向かって、「お前たちは国を出るのではなく、ロシア国中でレジスタンスをやれ」と言っています。確かに正論ではありますが、こういうところに戦時社会が持つ非常に単純な「敵味方思考」が現れていると思います。

「軍拡は人を殺す」

1982年にドロテー・ゼレという女性神学者が「軍拡は戦争がなくても人を殺す」という本を出しました(邦訳、日本YMCA同盟出版部、85年)。それが持つ意味は二つあります。一つ目はわかりやすいと思いますが、軍事にお金を費やすことによって福祉や教育などの民生にお金が回らなくなるということです。82年の西ドイツは、まずまずしっかりした福祉国家だったと思います。それから40年経ったドイツの状況は、大変悲惨です。ドイツの貧困率は全体で16・6%(1380万人)です。8人に1人が貧困なのです。子どもになると5人に1人が貧困です。そんなドイツで、いきなり1000億ユーロ(14兆円)ものお金を軍隊に費やす。それに違和感を覚えた人は、決して少なくないと思います。

西側の二重基準

今や世界は、格差や貧困のみならず、気候危機、パンデミック、エネルギー危機など未曾有の事態に見舞われています。東日本大震災のとき、哲学者の梅原猛が「文明災」という概念を提唱しました。あれは、いわば「科学技術の行き着く果て」という意味合いだったと思いますが、実際「文明」なるものがそもそも内包している問題性を改めて強く思わざるを得ません。西側では「民主主義対専制主義」を唱えていて、私は決して中国やロシアのような強権支配を擁護するつもりはありませんが、西側の自己欺瞞、二重基準の問題も見逃せないと思うのです。
70年代半ばの西側では、「過剰民主主義」ということが言われていました。要するに民主主義がありすぎるので、学生たちが騒ぐのだと。もっと「規律」ある民主主義にしなければいけない。そういうことをサミュエル・ハンチントンなどは大真面目に議論していました。その意図がどれだけ貫徹したかどうかはさておいて、79年以降、西側を覆っているのは新自由主義です。「競争と利潤が社会を動かす動因」ということで、福祉や公共の観念を否定していく。いわば「格差拡大の政治」と言っていいと思います。こういう格差拡大の政治は、一握りの人間で決めていくしかない。そういうわけで、実は西側でも強権的な方向性があると思います。
その鬼子というかあだ花のような姿で、右翼ポピュリズムがはびこってきている。私たちとしては安直な「民主主義対 専制主義」の図式に乗ることなく、69年に西ドイツ首相のブラントが唱えた「もっと民主主義を」という方向で、日本のみならず国境を越え、世代を越えて多様な人たちとつながっていく必要があると思います。

G7と人種差別主義

日本はG7の一角を占めています。建前としてG7が掲げる価値は、「自由、民主主義、人権」です。しかし、日本にはその建前すらありません。本来G7にいる資格はないのに、日本はG7で「アジア唯一の加盟国」と威張っている。これは、たとえば第一次大戦後に国際連盟ができて、日本は「五大国」だと呼ばれていた状況と似たようなものです。あるいはナチスの時代、日本人は「名誉アーリア人」、アパルトヘイトのとき南アフリカでは「名誉白人」。要するに今G7に日本がいるということは、この国のレイシズムをもっとひどくしていく方向にしか機能しないと思います。
安倍元首相とその取り巻きたちは、「世界の真ん中で輝く日本」などという妄想を振りまきました。テレビなどでは「ニッポンすごい」とか散々言われていますが、そういう妄想に浸っている間に日本は経済的にも社会的にもどんどん下の方に向かっているのです。
安倍の国葬とはそういった実態を国民に知らせずに、「安倍なきアベ政治」を続けていく意思のあらわれだと思います。もちろん国民の声なんて聞くはずがない。

2012年体制

「2012年体制」において、首相は誰でもいいのです。中身がなくてもいかにもリーダー然とした安倍だろうが、秘密警察の長官みたいな菅だろうが、どこかの経理係長みたいな岸田だろうが、誰でもいいのです。憲法を破壊し、日本を戦争のできる国に持っていく。それが「2012年体制」です。安倍は散々ウソをつきましたが、平和研究者として私が一番許せないのは「積極的平和主義」です。これは外務省の英訳では 〝proactive contribution to peace〟です。つまり、言葉の正しい意味での平和主義、pacifismと何の関係もない。その中身は、1937年に陸軍が作ったパンフレット「国防の本義と其の強化の提唱」とほとんど同じです。そこでは、強大な軍事力を見せつけるのを「国防力の消極的発動」、その軍事力を実際に行使するのを「積極的発動」と言っています。本当に看板に偽りありで、今の日本の権力者の発想は、1937年の大日本帝国陸軍と大差ないのです。

無責任の体系

戦後政治学の碩学、丸山眞男は、東京裁判で戦争責任を認めようとしない軍部の指導者たちを目の当たりにして、「無責任の体系」という概念を打ち立てました。しかし、この「無責任の体系」を完成させたのは、言うまでもなく裕仁天皇です。彼はアメリカのおかげで戦争責任を免れ、日米軍事同盟を主導する一方で、「平和主義的な君主」のイメージを打ち出します。1975年、彼は「戦争責任というような言葉のアヤについては、私は文学方面についてはきちんと研究していないので、お答えしかねます」と言う。こういう徹底的に無責任の体系が、今の今まで続いてきたのです。フクシマ後の状況も同様で、安倍晋三は「無責任の体系」の21世紀における象徴的人物だと言えます。
この無責任の体系を支えた連中は、まさに特権階級です。最近、ソ連・東欧崩壊後の新興財閥を「オリガルヒ」と呼びますが、そもそも「オリガルヒ」とは「少数支配者」という意味です。安倍にせよ、岸田にせよ、日本型オリガルヒの構成員です。これを潰さないとダメなのです。「岸田内閣を倒す」ということではなくて、自分たちは特権階級でぬくぬくしていながら弱者に「自己責任」を強要し、「日本の伝統」とやらを叫びながら、統一教会とズブズブの自民党を解体して、「無責任の体系」を戦前から今まで続いている日本型オリガルヒを潰さなければならないのです。
そこで考えなければならないのが、「反共主義の作用」です。文豪トーマス・マンは第二次大戦中の1943年、反共主義とは「まっとうな物事を考える力を奪う愚かさ」だと言いました。日本で十年一日のように繰り返される反共主義を乗り越える必要があります。

課題はシンプル

「変革の原動力であり、その土台となるべき民衆運動の課題とは何か」というとてつもない演題ですが、それは難しいようで割とシンプルではないかと思います。
一つは政治のフェミナイゼーションです。競争に勝ち、ヒエラルキーでの地位上昇を図るという男性原理に乗っているがゆえに、転落への恐怖に支配される。そうではなく、「競争ではなく共有、妥協ではなく共同、かけひきではなく協力を、政治のやり方や価値にしていこう」という原理に、民衆運動も脱皮する必要があります。
それからもう一つは、若い人たちを信頼することです。私はかつての右肩上がりの時代を知っていますので、自分自身と社会が結びついている感覚があったのですが、今の若い人たちは、そこがブチッと切れてしまっていて、ことあるごとに「自己責任」を問われる。民衆運動はそういう若い人たちが魅力を感じる場を作らなければならない。要するに自民党のオヤジ政治を根本的に否定するには、民衆運動もいわゆる「女子ども」にきちんと向き合い、一緒に歩んでいかなければならないのです。   (おわり)