粟原さん

「非核神戸方式」が始まってから、3月で48年になる。粟原富夫神戸市議会議員に、その経緯や意義を寄せてもらった。「平和な港町」「市民自治、住みたい街に」の思いは強い。「市民とつなぐ、議会とつなぐ」という会派「つなぐ」(5人)幹事長。粟原さんは、非核神戸方式、「平和のみなと」をアピールしてきた。(本紙編集委員会)

「核兵器積載艦艇の神戸港入港拒否に関する決議」は、1975年3月、神戸市議会において満場一致で可決された。以降、外国艦船は「核を積載していない」という非核証明書を提出しないと、神戸港に入港できなくなった。フランス、イタリア、インドなどの艦船は証明書を提出し入港した。米海軍は提出しないため、入港しない。
一般に外国の艦船の入港の扱いは港湾施設条例によるが、非核証明書を提出する神戸方式は条例ではなく市議会決議であり、行政指導として運用されている。
安倍政権の集団的自衛権を容認した安保法制や、岸田政権による日米軍事一体化の推進、軍拡路線の展開に対し、50年近い節目となる非核神戸方式も大きな試練を迎えるかもしれない。改憲が言われ、世界で戦争が始まり続いている今、米軍艦船の入港を止めてきた非核神戸方式を、みなさんとともに考えたい。

神戸港の近くに立つ非核神戸方式の碑

第6突堤利用に抗議

神戸港は1951年まで連合軍の占領下に置かれ、朝鮮戦争時は頻繁に米軍艦船が入港した。講和条約後も第6突堤(6突)が米軍専用とされ、ベトナム戦争では「休養、補修、修理」などの名目で第7艦隊の潜水艦、駆逐艦、巡洋艦などが多数入港してきた。朝鮮戦争後、57年の米艦船の入港は311隻、60年まで毎年100隻を超える入港が続く。核を積んでいると指摘された巡洋艦「タイコンデロガ」も、60年代に2回入った。
6突の返還を求める港湾労組の運動や、70年前後には学生の抗議デモ、市民運動も起こった。米軍の使用は74年に完全返還されたが、「日本に寄港する艦船は核をはずさない」という元米海軍提督ラロックの証言が明らかになる。当時の社会党市議が市長に質問し、「核搭載艦船は神戸港には入港させない」と答弁を引き出したことが、直接のきっかけとなった。
これら状況を受け、社会党などが提唱した「核搭載艦船の神戸港入港を拒否する」決議が75年3月18日、市議会本会議で全会一致可決された。それにより神戸市は、神戸港に入港する外国艦船に非核証明書の提出を求めることになり、提出しない場合は入港できない。

軍港を自治体の管理へ

非核神戸方式は、港湾法で定められた港湾管理者としての市長権限の行使により行われている。港湾法は、戦後の民主法の第1号と言われる。戦前、神戸や横浜など重要港湾は国が管理し、軍港や出兵に使われ侵略戦争への出撃拠点になった。
その反省から港湾法は、重要港湾はそれぞれ地方自治体が管理し、国家利用されることを排除すると明確に謳っている。自治体、住民に管理権を与えた。神戸方式は、この港湾管理権を最大限に活用している。
      (つづく)