米澤鐵志さん=17年8月6日撮影

昨年11月に亡くなった米澤さん追悼会が開かれた(3月25日、京都市内)。地元京都の反戦、反核・反原発運動、市民運動、立命館大時代の学生運動仲間、被爆地広島から、幅広くも濃いつながりの人たちが集まった。米澤さん追悼会らしい、「黙祷はいらん、やめようや」といきなり献杯、というよりも乾杯だった。
米澤さんと言えば、「核廃絶を貫く」被爆証言である。『ぼくは満員電車で原爆を浴びた』『原爆の世紀を生きて』にくわしい。「あの朝」どうだったのか、少年の目を通して語られる。9月1日、母親が亡くなる。強い放射能により身体中に斑点、内出血、嘔吐が続く苦悶の死だった。そのお乳を飲んだ1歳の妹も10月に亡くなった。米澤少年は、重症から奇跡的に回復する。50歳を過ぎてからの各地での被爆証言は、500回を超えている。
その証言をていねいに掘り起こしたのが、『ぼくは満員電車で…』である。文章にまとめた由井りょう子さん(小学館)が、それを紹介した。「8・6ヒロシマ平和の夕べ」から、河野美代子さんは「毎年8月、被爆電車を借り切り、あの日と同じコースをたどりながら話してもらった」と広島での米澤さんをスライドで写し、思い出を話した。08年、最初の「8・6ヒロシマ平和の夕べ」となった反戦平和集会の平和講演が米澤さんの被爆証言だった。
原爆の当時、日本の植民地にされていた朝鮮から多くの朝鮮人が広島に来ていた。米澤少年は、いつも朝鮮人の子どもたちと仲良く遊んでいた。彼らのほとんどが生きていない。朝鮮人は疎開先もなかったからだ。米澤さんは、いつもそのことを怒りながら証言していた。日本人も低学年は疎開せず親もとにおかれたから、子どもの犠牲は低学年と中学生に集中している。
立命館時代からの友人たちは、米澤さんのまっすぐな闘士ぶり、対立する運動をまとめる人柄、地域医療に尽力する病院経営などを交え、「一人でもたたかい始めるが、しだいに仲間が増える」と思い出を語った。川口真由美さんが「基地ではなく愛の島へ~沖縄アイランド」と歌う。
米澤さんは今年5月、ドイツ、ハノーファー市の市長に招かれ被爆を証言する予定だったが、叶わなかった。呼びかけ人の一人、山本健治さんが「証言をドイツ語と日本語にまとめた。表題は、被爆し髪の毛が抜けた『GlatzKopf Tetsu つるはげのてつ』とした。ハノーファーとドイツの人たちに送る」と紹介。「英語、フランス語版もつくり、全部の核保有国に届ける」「核と原発の廃止!やるぞー」と声をあげ、閉会となった。「米澤さんにふさわしい」と言うほかにない会だった。(竹田)