本紙357号の「後継者難にあえぐ日本農業」を拝読しました。見出しが「協同化は打開策となるか」と疑問形でしたが、筆者の意見と合致しているのでしょうか。筆者は「何らかの形で農業経営を協同化することが必要だ」とされています。
かならずしも、既存の農協とは限定しないものの意識ある生産者がグループ、組織を形成するなど、なんらかの協同化は必須です。合わせて同じ協同組合である生協が、そことの関係をつくっていくことが大事です。
協同化することで、さまざまな合理化を進められます。筆者も例示されるように、年に1回しか使わない生産のための機械を、個人でなく協同で所有する。さらに米の品種をいくつかに分け、田植えや稲刈りの時期をずらす。生産手法に関する学び合いを進めるなど。
気候危機に対策するために生産方式や技術に関して協同していくことも必要です。
そして消費者側としての生協との間で、どれだけの生産物をどのような価格で引き受けるのか、どんな生産方法を取るのかを年間で約束する方法(協同組合間協同)が行われています。そのことで生産者による再生産を保障するのです。

社会的連帯経済

本紙で最近紹介された記事では、強欲資本主義の権化アメリカ社会でGDPの10%が社会的連帯経済・企業により担われていると。協同組合や労働者管理の事業体、あるいはNGOなどです。
いわゆるグローバル化で語られる世界規模での大企業の横暴、その結果としての貧困と格差の極端な進行に対して、このような協同化の取り組みが有力な対抗策として位置付けられています。
しかし、日本では様々な政治運動と協同組合運動がうまく結びついていません。前者は概して上部構造での抽象的な政策論をたたかわせるにとどまっています。それも政策提案というよりも、何らかの政策に対する反対論です。現実の社会、下部構造での生産・消費の構造を現実に変革していくという活動を、上記のような社会的な存在、アソシエーションを社会に多くつくっていくことで進めるという考え方をとりたいと思います。

農協の功罪

農協が戦後一貫して、政権与党の支持基盤とされてきたこともあるでしょう。しかし、農協中央会の指導機能が剥奪された現状では、日本の農業政策、食糧政策に関して組織だった提案を誰がするのかという深刻な事態となっています。
振り返れば戦後改革で自作農化が進んだものの、せっかくできた農協では生産資材の購入と生産物の出荷の部分で協同化されるにとどまり、生産行為自体は協同化されませんでした。市場流通では生産費を賄える価格で取引されるのか、何の保証もありません。様々な要因で変動する市場価格に振り回されることになります。
最近では流通事業者が生産者との直接の関係をつくり、生産物の仕入れをする方式が広まっています。しかし、巨大化した流通事業者とでは、価格決定面でたちうちできません。

対等な共同関係

生産側で望まれる様々な合理化や生産技術の向上を、協同化によって実現するとともに消費側との対等な関係での協同関係の構築が必要です。ベースは再生産保障の考え方です。市場競争でうまく物事が解決するという考え方は幻想です。安心して後継者に農業を継がせることができるようになることが目指されなければなりません。
また、政府は農業生産物の輸出を打ち出していますが、外国との市場競争で優位性を言えるものは一部の特別な生産品に限られます。逆に、特に穀物や飼料では生産構造の違いがあり(生産単位が2桁以上も違う)、およそ競争になりません。にもかかわらず、自由貿易協定で農業生産品について関税を撤廃しており、ひとたまりもありません。
筆者が指摘されるように、欧米では関税ではなく農業補助金で生産者を守るという措置がなされており、結果として食料品の自給率がまともな水準に保たれています。日本は30%台と言われますが、穀物飼料をほとんど輸入に頼っており酪農・畜産などの餌の部分を含む数字は20%台と、もっと悲惨です。
軍備を増強しても何かあれば、(米は何とかなりますが)たちまち食べる物がなくなります。「安全保障」を言うなら、もっと自国の生産者、生産体系をしっかりとした仕組みで守ることが先です。(前田 修)