
満州事変を引き起こした関東軍は、日本政府の不拡大方針を無視し一挙に満州全土を制圧、傀儡国家「満州国」建国へと突き進んだ。
日本の満州侵略のスローガン「五族協和」「王道楽土」は、満州で歯科医師をしていた小澤開作(指揮者・小澤征爾の父)が考えた。石原莞爾と板垣征四郎が感激し取り入れたという。関東軍にすれば、日清・日露戦争で膨大な血と戦費で購った土地である。何としても自分の領土にしたかったのだ。そのために清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀を担ぎ出し「満州国」を作ることにした。
「満州国」は日本の傀儡であった。清朝復活をめざす溥儀と日本との間で「日満議定書」が結ばれ、「皇帝の密約」が存在していた。その内容は、①満州国の治安維持と国防は日本軍に委ねる、②国防上必要な鉄道港湾などの管理、新設は日本に委ねる、③日本人を満州国参議に任じ、中央、地方の官署にも日本人を任用する、とされた。特に人事の項では、「その選任、解任は関東軍司令官の同意を必要とする」という但し書きまであった。
満州と石原莞爾
傀儡国家「満州国」で暗躍した3人の人物がいる。『満州裏史』(太田尚樹・講談社文庫)などが参考になる。そのうちの一人、石原莞爾の考えは、日蓮の予言した「前代未聞の大闘諍(闘争)」に触発されていた。
石原は陸軍大学に入った頃から日蓮系右翼、田中智学の国柱会(宮沢賢治も入っていた)に入会している。田中智学の「八紘一宇」という用語が気に入っていた。日本とアメリカとの世界最終戦争論を唱え、それに備えるために「満州を領有して資源を確保しなければならない」と主張。日本を「アジアでのアメリカ(盟主)」にする構想だった。石原自身は、満州を日本の植民地にしたかったようであるが、大兵站基地としての「満州国」という傀儡国家をつくる方針となった。
「昼は関東軍
夜は甘粕」
石原や板垣征四郎ら関東軍参謀たちは、「俺たちが血を流して建国した満州に、後からのこのこやって来た財界の連中に、甘い汁は吸わせない」と息まいていた。しかし、産業政策には商工省若手トップの官僚、岸信介を担ぎ出すことになる。岸は、大規模農場経営の農業政策に反対し、100万戸移民計画を推し進めた。農村の疲弊(生糸の暴落)、二男三男への土地対策として、さらに対ソ連防衛対策として進められた。
満州事変を引き起こし、日中15年戦争の元凶となり中国残留孤児を生み出した男、石原莞爾は立命館大学で国防学の講師をしていたという。東京裁判にもかけられなかった石原は、1949年8月15日、故郷の山形でがんで死亡した。
坂本龍一が、映画『ラストエンペラー』で演じた甘粕正彦は関東大震災時に大杉栄、伊藤野枝、6歳の橘宗一を虐殺した。その甘粕は10年の刑に処せられたが、千葉刑務所に3年だけ服役した後、フランスに身を隠し約1年半滞在した。
いったん日本に戻った後、1929年の秋に満州の奉天に家族とともにやってきた。当初、甘粕は土肥原特務機関に身を置き、満州事変のための後方かく乱、謀略活動などに従事する。巷では「昼の満州は関東軍が支配し、夜は甘粕が支配した」と言われていた。
(こじま みちお)