
日本の左翼総体の限界は「戦後の日本階級闘争には(銃による)暴力革命戦略は根づかなかった」と明言する者がいないことです。あたかも暴力革命路線が存在したかのように誤認されたため、歴史の真実が棚ざらしにされてきました。
銃以外の手段をもってする闘い(実力闘争)を(銃による)暴力革命と錯覚し続ける限り、真の総括にはたどり着かないのではないでしょうか。
日本共産党の歴史
第一次大戦でロシアはドイツに負けたわけではありません。ロシアの兵士たちは革命に合流しました。第二次大戦の日本は明らかに敗戦でした。壊滅状態のなか、旧日本軍の兵士が革命に合流する動きや、米軍の占領下で軍事的に決起する主体的・客観的な可能性はあったのでしょうか?
1950年、コミンフォルムが日共の「占領下の平和革命論」を批判し、中国式の武装闘争路線の採用を強く迫りました。これによって日共は所感派と国際派に分裂し、党内闘争が始まります。
当時の日共はアメリカ帝国主義の軍事力を敵に回して抗う決断ができなかったというのが本当のところのようです。中核自衛隊や山村工作隊は小さな反乱に過ぎません。動揺しながら結局、銃を取ってアメリカと軍事的に対決できませんでした。
この事実は軽々しく扱うことはできません。彼らが直面した時代状況は重たい。彼らの逡巡の背景にある歴史的課題に密着して分析・研究・検討を加える必要があります。日本共産党は暴力革命の党ではなかったし、これからも暴力革命をできない党なのです。
革共同の場合
革共同には日米安保(軍事同盟)体制下で米軍とどう対峙していくのかについて、ほとんど言及がなかったようです。この最大の難問を不問に付して日本革命を語ってきたのではないでしょうか。そこに1970年前後の日本の時代状況、労働者の意識と生活状態の客観的で綿密な分析はあったのでしょうか。
革共同は戦後民主主義体制の枠にぶち当たるような各種の非合法実力闘争を敢行しましたが、それ以上の発展はありませんでした。暴力革命への志向性はあったが、肝心要の自衛隊や米軍との対峙の仕方を対象化できていたのでしょうか。日共が乗り越えられなかった壁を本当に乗り越えたのでしょうか。レーニンは柔軟で、教条的ではなかった。ロシア革命はロシア固有の特徴を捉えて勝利したのであり、普遍的に適用できるものではないと思うのです。
暴力革命とは、ベトナムやアフガニスタンのように米軍が慌てふためいて逃げ出す状況のことですが、日本ではそうならなかった。暴力的か平和的かという抽象的概念で思考した時点で、時代に取り残されています。目の前の具体的現実から考えるべきです。
日本階級闘争の現状
このままでは自民・岸田にしてやられます。ちっぽけな自派だけに拘泥するな。日米安保の日本の要の自民党こそ真の敵です。彼らを下野させ解体に追い込むために何が必要か。反自民の広範な統一戦線でたたかうべきです。名指しで自民を徹底批判しよう。忖度するな。知識人・文化人を始めとして多くの人が、今がどんな時代か理解して闘っています。安保三文書の「敵基地攻撃」に象徴される改憲クーデターは「戦争はこうやって始まる」と思わせるものです。自民と日米軍事同盟は一体です。岸田が退陣しても自民は安泰。主敵は自民、団結して闘おう。(道端民男)