
甘粕は、「満州国」執政に祭り上げた溥儀を天津の日本租界から長春に連れ出すため、警護(監視役)の責任者となる。リットン調査団の「案内と警護」も担当した。欧米の情報機関は、甘粕が調査団を爆殺するかも知れないと危惧していたようだ。リットン調査団が6月に去り、日本は9月に満州国を承認する。
『満州裏史』によれば、満州国を承認した国にはエルサルバドル、イタリア、ドイツ、スペインがある。1938年夏これらの国に使節団が派遣され、協和会総務部長であった甘粕も副団長として訪問した。協和会とは国策の宣伝機関で、関東軍に協力しながら日満一体論などの普及活動を目的に1932年に設立された。甘粕は1937年4月、協和会中央本部総務部長に就任し、「満州国の表の顔」として仕事をするようになっていた。1945年8月20日、青酸カリを飲み自殺した。
岸信介と阿片
3人目の人物である岸信介。岸は1936年、満州国事業部総務司長として満州に赴任する。「満州は私の作品だ」と岸自身が言うように、関東軍に請われて満州に赴いた岸は、統制経済論を基に満州の産業と国家建設を進めていく。
満州では満州鉄道が産業を支える会社だった。満鉄は、鉄道事業だけでなく炭鉱、製鉄事業、ホテルなどにも手を延ばしていた。それだけでは不充分であり、岸は日産コンツエルン(日産自動車・日立など)の鮎川義介に声をかけ、満州産業を設立した。
一方、国家財政の大きな柱として阿片の専売制を導入。その収入だけで満州国の国家予算の6分の1を占めたという。椎名悦三郎も、岸の子分として深くかかわっている。阿片販売の繋がりで岸、甘粕の人脈が形成された。
岸は3年で満州を去り1941年10月、東條内閣の商工大臣として入閣。戦後、GHQによって戦犯容疑で逮捕され巣鴨プリズンに収監されたが、1948年12月23日に東条英機が絞首刑になった翌日に、巣鴨を出所した。
「麻薬はどこの国でも最大の関心事でした。もちろん、アメリカだってそう。戦後、GHQが克明に調査して関係者に尋問したのに、まったくと言っていいほど処罰の対象にならなかったのが不思議だと思いませんか。明らかに情報提供の代償になったから。甘粕はもうこの世にいなかった。岸、里見甫(上海、満州で暗躍した阿片密売人)などが無罪放免になったのは、そのため」。
元ハルピン特務機関員の中田紘一の証言である。
(写真上は商工相時代の岸信介、右は首相の東条英機)