季刊誌『フラタニティ』を主催する村岡到氏から「新しい社会構想」の探求が呼びかけられている。以下はこれに応えて私が同誌に寄稿した文章である(掛川)。

(一)ロシア革命モデルの社会変革は不可能

 資本主義批判といっても容易ではないが、レーニン主義者だった自らの経緯にも踏まえ、新旧左翼の失敗から「こうしてはならない」という消去法的な形ならある程度確実なことが言えると思う。
 資本主義社会が巨大な社会的格差を生み出していることは事実だし、これこそまさに大問題なのだが、富裕層と貧困層とが「一対九九」「金持ちと貧乏人」という形できれいに分かれるわけではない。一億円のタワマンに暮らすスーパーリッチと明日の食費にこと欠く貧困層の間には、子供の塾や習い事に年間百万以上費やすことのできる連合労働者や、そこまで余裕はないが家族で食べるに困らない中間層など、様々な色合いを帯びた階層がグラデーションをなしている。スーパーリッチと貧困層だけを見れば「非和解の階級対立」としか言いようがないし、「武器をとれ」と言いたくもなるが、両者の間に「ここから富裕層、ここから貧困層」という敵と味方の明確な一線を引くことはできないのである。
 こういう社会で、ロシア革命をモデルに貧困層の即時的利害を掲げて武力で権力を目指そうとすれば、闘争が資本家対労働者という枠に収まらず、労働者住民同士の階層対立が昂じて社会が内戦状態に陥る。武装蜂起した貧民が権力をとる以前に、貧困層と中間層の共倒れしかもたらさないのである。ベルンシュタイン論争を消化しきれないまま共産党と社民党が骨肉の争いを繰り広げ、ナチス体制への道を開いた一九二〇―三〇年代ドイツがまさにそうだった。ロシア革命とレーニン主義をモデルにしたドイツ共産党左派は少数派のまま武装蜂起を繰り返し試みて破産したが、戦後日本の新左翼も基本的にドイツ左派と同じ轍を踏んでいる。
 むろんかつてのベトナム戦争や、トルコ軍事政権とたたかうクルド民族、イスラエルと対峙するパレスチナなど、武力闘争以外に他の手段がないと思える局面があることは確かだが、少なくともいわゆる「先進」工業国家、議会制民主主義国において、ロシア革命のような暴力革命はおよそ考えづらい。
 武装闘争路線をとらなくても現在の住民間対立は深刻である。周囲を見渡せば、正規雇用と非正規雇用の格差が代表するような住民間格差、階層間対立の方が階級間対立よりも際立っており、例えばアメリカでは共和党支持者と民主党支持者の対立は内戦の一歩手前と思えるほどである。韓国の保守・革新の対立も顕著だし、日本における連合と日本共産党の険悪な関係も本質的に同じ構造に起因すると思われる。日本の貧困層の利害を現時点でもっとも体現しているのはれいわ新撰組や共産党だと思うが、国民民主党支持層の彼らにたいする視線は実に冷ややかである。かといって国民民主党や連合を「資本家の手先だ」と切り捨てるのも無理がある。
 行き詰まった資本主義社会のオルタナティブは、もっとも虐げられ、抑圧された人々の存在からしか出てこないと思うし、根底的な批判と対案が求められていることは確かだ。しかし、貧困層に焦点をしぼった社会変革プランを社会全体が受け入れることは容易ではない。
 われわれが安倍政権の実績を批判する場合も、かなりの規模で安倍支持者が存在することを思えば、安倍元首相を批判するだけでは済まない問題がある。三浦展『大下流国家 「オワコン日本」の現在地』(光文社新書)が詳細に分析しているように、安倍政権下で生活が向上した人は安倍支持、生活が苦しくなった人は安倍不支持、という明白な傾向が存在する。安倍政権に人気があったのは愚かな民衆の啓蒙が足りないからだ、という左翼の暗黙の認識は形を変えたレーニン「外部注入論」であって、住民間の対立を不必要に煽り立ててしまう。私も安倍元首相は嫌いだったが、安倍支持者とは同じコミュニティで一緒に暮らすしかないのである。
 したがって、仮にわれわれが社会変革プランを確立できたとしても、これを一気に実現することは不可能である。どうやって相対的に豊かな層と折り合いをつけながら段階的に変革プランを実施していくのか、どこまでが説得でどこから強制が必要なのか、政策実現論という範疇の配慮が必要になる。村岡氏が共産党に「閣外協力せよ」と訴えている次元のテーマである。

革命か改良か―階級的国家論の見直し

 この社会を「資本家対労働者」「1対99」できれいに線引きできるわけではないと前節で論じた。このテーマから派生して論を進めると、これまであまり論じられていないが、マルクス主義国家論の修正というテーマが出てくる。レーニン『国家と革命』が規定する「国家=階級支配の暴力装置」という理解だけでは現実に対応できない問題である。
 ドイツの労働者が自らの必要で創設した社会保険システムをビスマルクが国家機構に組み込んで以来、国家権力は階級的陣地戦の土俵になっている。例えばドイツでは、社会民主党が掌握するプロイセン州政府の転覆か防衛かというテーマが二〇年代を通じて政治の焦点だった(首相と警察長官が著名な社民党員で、職員にも党員が多かった)。ロシア革命で国家権力の破壊がもっぱら問われた位相と対照的である。
 現在の日本に話を戻すと、何でもありの警察の治安政策や法律無視の沖縄・辺野古新基地建設などを見れば、国家の階級的側面が今でも色濃く残っていることは事実である。他方で、社会福祉制度や労働三権、数々の環境規制など、資本を規制して労働者住民を守るために導入されたシステムも数多い。私も仕事がら建築物衛生法や消防法、水道法、電気事業法などを学んだことがあるが、これらの法規制がなくなればたちまち社会運営は破綻する。国家権力には破壊してはならない領域も山ほどある。
 暗黙裡に誰もが感じている問題なので、「今さら当たり前の話を」と言われるかもしれない。しかしあえてこういう話をするのは、この問題の論理的帰結として、警察・裁判所および軍隊は破壊の対象ではなく、民主化の対象として扱うべきではないのか、という命題が出てくるからである。警察・裁判所・軍隊は今でも階級的性格がもっとも色濃いため、暗黙のうちに破壊の対象と考えている人も実際に多い。
 たとえば米国で国家予算の大半を押さえている軍産複合体が選挙で負けたぐらいでやすやすと権力を明け渡すとは思えない。オキュパイ運動のなかで「私たちは革命を準備すべきでしょうか」と問われたチョムスキーは、「空念仏でない『革命』を実現するには、国民の過半数が既存の制度の枠組みのなかでもまだまだ改革が可能である」という考えを捨てないと不可能であり、現状は革命からほど遠い。「通常の改革の範囲内でできることはいくらもあるし、われわれはまだその限界に近づいてもいない…実際に行動に移すべきことは他に山ほどある」と応えている(チョムスキー『アメリカを占拠せよ』)。含蓄のある言葉だと思う。賃上げストを始めただけで軍隊が発砲してきた帝政ロシアと現在のわれわれは事情が違う。合法的にやれることが山ほどある現状で、革命が必要かどうかというテーマは当面棚上げする方がいいと私も思う。

(二)社会科学の見直し=近代合理主義をいかに乗り越えるか

 さて次に、社会構想のはるか手前で恐縮だが、そこに至る方法論をとりあげる必要があると私は感じている。資本主義を批判的に分析する既成の概念や知的道具が役に立たないと思うからだ。
 端的に、近代合理主義をどう乗り越えるか、ということだが、すでにかなりの程度「ポスト・モダン」という形で論じられてきたテーマではある。しかし社会科学全般において近代合理主義の弊害がいまだ際立っていると思われることから、ウォーラーステインを導きの糸として私なりに問題を整理しておきたい。
 近代経済学がエセ学問だという批判はもともと根強くある。そもそもマルクス『資本論』の副題が「経済学批判」だったが、主流派経済学のインチキぶりは近年顕著である。日銀の「インフレターゲット論」が典型だが、「黒田バズーカ」で日銀がじゃぶじゃぶに通貨を供給しても一〇年間物価が上がらず、成長もしない現実をリフレ派の誰も説明できなかった。ウクライナ危機を転機に物価が上昇し、生活破壊的な円安が進んだことで日銀も金融引き締めに舵を切ろうとしているが、その説明はしどろもどろ。経済専門家の説明が当てにならないと思った人も多いだろう。
 経済学は一つの典型だが、経済学を含めた現在の社会科学を規定するのは、ひるがえって一七世紀に始まる科学革命だった。
 「近代世界を特徴づける知識のシステムは…一七世紀になってやっと、ニュートン、ロック、デカルトの知的な勝利によって体系化された…一八世紀の指導的理念である<自然>と<理性>は、…その意義を自然科学から引き出し、それを人間社会に適用して、社会物理学の発見する試みへとつなげた。…あらゆる点で、新しく発明された社会科学は、物質科学に同化させられた。自然についてのニュートン物理学的な体系、科学的方法、科学的理念に表現されたような世界の合理的秩序は、…精神、社会、商業、政府、倫理、国際関係」などすべての領域に適用された。われわれは三〇〇年間その知的遺産を継承してきたのである(ウォーラーステイン『脱=社会科学 一九世紀パラダイムの限界』藤原書店)。

 現在の社会科学を規定する17世紀科学革命についてもう少し詳しく見てみよう。
 科学革命の中心をなすデカルト的世界観の特徴が、精神と自然の二元論であり、数学で表現できる機械論的な自然観である。天体の動きがニュートン力学で説明可能であり、過去から現在にいたるまで星の運行を方程式で計算できるという事実は当時きわめて衝撃的だった。宇宙の神秘、神の言葉がついに解き明かされた、と人々は感じたのである。自然とは神が仕掛けたぜんまい時計のようなもので、系の基本条件さえわかれば運動は過去から未来まですべて計算し、予測できるとされた。
 しかしニュートン的自然観とは対照的に、生命や社会の領域では物質やその構造がたえず新たに生成され、複雑なシステムを自ら生み出し、発展していく。機械のような自然のなかで人間は一体どんな位置を占めることができるのか。
 「近代科学が、天と地とを隔てていた障壁を打ち破り、宇宙を併合し、統一した…しかし、この統一は質的なものと感受性にあふれる世界、われわれがそこに生き、愛し、そして死ぬ世界を、別の世界、すなわち、数量と幾何学が支配し、あらゆるものが存在できるが、人間だけは入る余地のない世界に置き換えることによってなされた。こうして科学の世界―現実の世界―は、生命の世界から離間され、完全に縁を切った。…これは近代精神の悲劇である。『宇宙の謎を解いた』はずが、別の謎で置き換えたにすぎなかった。謎自身の謎に置き換わった」(アレキサンドル・コイレ。I・プリゴジン、I・スタンジェール『混沌からの秩序』みすず書房)。
 こうして、機械的自然と生命・人間の二元的対立は今日まで続く広範な論争テーマとなり、機械論と生気論、還元論と全体論など数々の論争がここから派生した。その一方で、ニュートン力学的な方法論は社会分野にもどんどん持ち込まれ、今日の社会科学が体系づけられていった。
 「社会的な過程の中心をなすのは…市場にかんするもの、国家にかんするもの、そして『個人』にかんするものであった…これらの領域それぞれの研究は、経済学、政治学、社会学と名付けられるようになった」(ウォーラーステイン『脱=社会科学 一九世紀パラダイムの限界』藤原書店。以下W)。
 こうして「資本主義世界経済の制度的諸構造(国家、階級、民族、世帯、運動)は、全体としてのシステムの発展と並行して、ある史的システムから次のシステムへと進化の形で発展してゆく、あたかも自足的な実体として分析されてきた」(W)。つまり、政治、経済、社会などに細分化されたそれぞれの領域は実験室内のような孤立した系をなし、方程式で表現できるような一般法則がこれを支配する、初期的条件さえ与えればその過去・現在・未来はすべて予測可能―こういうパラダイムにもとづいてほとんどの理論が組み立てられてきたのである。
 しかし「実際は、資本主義世界経済の制度的諸構造は集合的な創造物であり、この独自の大規模な全体の運動の説明から離れて分析することはできない」(W)。自然科学で例えれば、原子、分子、有機物、細胞、生命体…それぞれの次元で物質の振る舞いは独自の固有性を持つ。各系はお互いに影響を及ぼすが、原子の動きをいくら解明してもそこから分子や生命の挙動を演繹することはできない。これと同じように、資本主義というさまざまな系からなる集合的なシステムの変動も単純な一般法則で記述することは不可能なのである。

「発展」概念の誤り

 ウォーラーステインに言わせると、ニュートン力学を誤って社会領域に持ち込んだ典型が「発展」概念である。それぞれの国家は奴隷制、封建制、資本制と順を追って発展するため、後進国は先進国を模倣すればいずれ進歩の果実を味わえるという理屈である。しかしこのモデルは「富める諸国と貧しい諸国の間の格差の増大が、あまねく認められているのはどうしてなのかを説明していない」(W)。
 資本主義が発展すれば社会主義が必然化するという公認マルクス主義の見解も「発展」概念の派生型である。かつてコミンテルンは各国の「発展段階」に応じた革命戦略を共産党各国支部に指令したが、“階段をのぼるように段階的に民主主義から社会主義に発展する”という、日本共産党が現在掲げる「民主主義革命」論も「発展」概念に基づく思想的フレームワークは当時のままである。
 「発展」概念の誤りは、まずその国家論にある。「近代国家は史的発展が生じてきた原初的な枠組みではない。近代国家は、資本主義世界経済における一連の社会制度」であり、「この資本主義世界経済こそが枠組みをなしている」(W)。資本主義的な分業体系がまず存在し、システムが円滑に動くように後から国家権力の体系が組織され、再編されていったというのである。
 貴族・ブルジョア・プロレタリアという概念の単純化も間違いである。ブルジョア革命で貴族を打倒して資本家が権力を握ったというのは神話であり、現実には「ブルジョアジーが貴族を打倒するどころか、貴族がブルジョアジーになったのである」(W)。小農が分解してプロレタリアートに移行したというのも嘘で、農業を営みながら賃金収入を得るというのが勤労世帯の一般的なあり方だった。農地をもった半プロレタリアの方が食費がかからず、賃金を低く抑えることができたからである。もっぱら賃金収入に依拠する純粋プロレタリアートは人口の少数派だった。

近代合理主義と反体制運動

 反体制運動もまた、ニュートン的な世界観の影響を大きく受けている。たとえば「世界の反システム運動の基本戦略は…国家機構の掌握をその目標とする、組織の創設」をめざした。「私に言わせれば…この戦略の限界は、ニュートン主義的な世界観にある。それは諸国家を相対的に自立した構造と見なし、政治権力を排他的にか、あるいは少なくとも基本的に、国家機構のなかにあるものと考えていた」。しかしこの仮定が根本的に間違っている。実際のところ「国家構造は国家間システムのなかに埋め込まれていたので…その自律性の程度は、きびしく制約されていた」。さらに「政治権力の唯一の所在が国家機構の掌握にある、というのは正しくない」。「真の政治権力の要素は、多数の場所に散在している。国家機構はそうした場所の重要な一つであるが、決して唯一のものではない…国家機構は、世界経済の真の権力が集中するところの半分しか占めていない」(ウォーラーステイン『脱=社会科学』、以下W)。
 誤って社会を分割して理解しようとしたために、本来必要な統計資料も存在しない。「統計statisticsは、その名称からいって明らかなことであるが、国家statesの数だけの寄せ集めであった…データを体系化していく現在の様式、つまり国境内で統計がとられることが、問題に接近することすら不可能にしている」(W)。例えば、国境を超えて展開するグローバル企業が増加した現在、国家単位の統計でどこまで現実を把握できるのかという問題が出てくる。ホンダ、日立グループ、味の素、ヤクルト、電通…社員の数では外国人の方が多い日本企業は数多い。マブチモーターに至っては九六%が外国人。「日本企業」という分類自体を問い直す必要がある。「われわれの課題は、過去二〇〇年間の社会科学の業績を、まったく初めからではないにしても、書き改めることである。われわれが収集してきた資料は、せいぜいのところ部分的に役に立つにすぎない。概念上の範疇も、新しく作られる必要がある。われわれの研究の方法は、それ自身誕生し、時とともに発展し、ある時点で構造的危機に陥るような、具体的かつ大規模なシステムを説明するという、この新しい目標に沿って再定義されなければならない」(W)。
 ウォーラーステインの指摘は重大である。別の場所で述べるが、日本の政治・経済を規定するのがアメリカの軍産複合体と金融資本を頂点とする覇権システムだという事実を見れば、日本の国内政治が解決できる問題領域は実はそれほど多くないのである。方法論を見直さない限り、仮に野党共闘が政権に到達しても、アメリカの圧力であっという間に吹き飛ばされた民主党政権の二の舞いになってしまう。

ヘーゲルとマルクス

 マルクスの場合、ニュートン的宇宙観では説明できない社会発展の複雑な事象を、ヘーゲル弁証法を援用することで豊かに汲みとろうとしたと言えるだろう。
 「ヘーゲルの自然哲学は、ニュートン科学が拒否したすべてのものを体系的に取り込んでいる。特に、力学によって記述される単純な挙動と、生物のようにより複雑なものの挙動とが質的に違っていることに基礎を置いている。ヘーゲルは、これら複雑なもののレベルを単純なもののレベルに還元する可能性を否定し、この違いが見かけのものであり、自然は本来均質かつ単純であるという考えを拒否する」(プリゴジン『混沌からの秩序』、以下P)。残念ながら、ヘーゲルが依拠した当時の自然科学の研究結果はそのほとんどが間違っていることが証明され、ヘーゲル哲学が意図したことも忘れ去られたとプリゴジンは言う。
 マルクスがヘーゲル弁証法を唯物論の立場から転倒した『資本論』は人類史的遺産だと思う。しかしヘーゲルにそういう傾向があったように、弁証法は詭弁に陥る危険性と紙一重である。マルクス自身の意思がどこまで反映しているのかはよくわからないが、少なくとも一般的に理解されている「マルクス主義」は、ベルンシュタイン論争以降の資本主義社会の発展を「階級の対立とその止揚」という論理に強引にあてはめることでドグマになってしまったと思う。
 マルクスがどこまで近代思想の申し子だったのかという議論もあるが、スターリンが継承した「公認マルクス主義」では、「社会発展の法則」「社会主義の必然性」「党は常に正しい」といった表現のなかに、機械的自然論、自然を利用する人間、宇宙を支配する単一の法則、すべては予測可能だという決定論など、近代合理主義の根幹がにじみ出ていることは確かである。

自然科学の新しいパラダイム

 自然と人間の対立というテーマについてシュレーディンガーは、染色体が分裂して自己を複製する様子から、「秩序から秩序へ」というニュートン力学的な系、「秩序から無秩序へ」という熱力学的な系とは別に、いまだ科学的に記述されていないが、生命現象にかかわる「無秩序から秩序へ」という別個の系が自然界に存在するはずだと論じた(シュレーディンガー『生命とは何か』岩波文庫)。かつてヘーゲルが弁証法を用いて記述しようとした、この「無秩序から秩序へ」という系の領域は、今日では「自己組織化」「複雑系」などと呼ばれ、著しい発見が自然科学の分野でなされているという。「物質はもはや機械論的世界観で述べられたような受動的な物体ではなく、物質には自発的な活性が伴っている、と考える新しい物質観」(P)が生まれている。自然には混沌の中から生命的な秩序を自発的に生み出す内的論理が備わっているという認識は、いずれは社会科学全般に巨大な波及をもたらすはずだとプリゴジンは言う。実際、ウォーラーステインの「世界システム論」は、かつての社会科学がニュートン力学の方法論を模倣したように、自然科学の新しい成果を彼なりに咀嚼し、適用したものである。
 限界に達した資本主義は一体どこへ向かうのか―われわれには歴史の転換点を見極める新たな知的パラダイムが求められているようだ。
(了)