沖縄の主なモニュメントの日を挙げてみる。
4月1日 米軍が沖縄本島上陸(1945年)
4月28日 サンフランシスコ講和による沖縄引き離し(屈辱の日)
5月15日 復帰記念日(5・15平和行進) 
6月23日 慰霊の日(牛島中将自決、日本軍の組織的抵抗終る)
10月10日 ジュウジュウ空襲(沖縄空襲、戦争を意識する)
12月20日 コザ暴動
3月31日 琉球国滅亡(琉球処分)
あまり取り上げられない3月31日は、1879年(明治12)のこと。今回は琉球国がどのように併合されたかの経緯をたどってみる。
この欄で明治4年(1871年)の宮古島島民の台湾遭難、明治5年の鉄道開始初日に慶賀使節が乗車したこと、琉球国王を藩王に任命されたことなどを述べた。今回はその続き。
明治6年3月3日、外務省の役人となった伊地知と福崎が琉球在勤として着任。国旗が届き、在番奉行所が廃され、外務省主張所となるなどの変化が起る。
伊地知は、琉米条約(1854年)、琉仏条約(1855年)、琉蘭条約(1859年)の条約原本の提出を求める。三司官(行政のトップ)は「写しで勘弁願う」と言うが拒否され、逆に写しを琉球国がもらうはめになった。これら条約は、薩摩の許す範囲であっても、独自外交ができた琉球国の証であった。
明治8年になると、琉球国の運命はドラスティックに動く。琉球は、清との冊封(さっぽう=王に任命すること)、朝貢関係の廃止と明治年号の使用などを命令される。明治政府から派遣された処分
官、松田道之と当時の三司官とのやり取りは以下のようなものだった。

明治政府と琉球国・藩

松田道之 当藩(琉球国)は「往古より支那(中国、清)の恩義があり、支那を離れると信義にもとる」というが、これは条理と思うのか。
三司官 その通り(離れるのは)条理なしと思う。
松田 支那は諸国より先に開けたれば日本も孔子孟子の道を学び、その文字を用いている。その恩義少なくないが、当今日本は万事万物を欧米各国の美を学び以って開明進歩に赴けり。その恩義はまた支那にも劣らない。
今、琉球両属(中国と日本の両属)のままにしておけば、政府の欠点でもあり放置できない理由がある。その一、二を挙げると、もし英国と支那が戦争し支那の大地を占領すれば、琉球も其の掌中に属する。日本は英国と談判しなければならない。また、日本と支那が戦端を開けば当藩は何れにも付きがたく困った立場になる。だから両属は成り立ちがたい。だから条理は分かるけれども、その条理を越える事態である。
三司官 日本政府の各国に接するのは隣国交際の方法である。当藩の支那との接し方は父子の道、君臣の義でもって行っている。隣国交際の方法とは同じ話ではない。信義を守るのは万国の同じく好む所、信義を失うは万国の共に憎む所、万国の好む所の信義を全うせしむるは政府の盛典(政事)にあらざらんや(ではないのか)。且つ各国の交際も信義を以って処置している。当藩も堅く信義を守るを以って国を保つ根本としている。しかも英国と支那との戦いは未来のこと。だから当藩(我が琉球)は信義さえ失わなければ、前途憂慮を煩(わずら)わす所はないと信じている。
松田 未来のこととは言えども、国事は予め計策を立てておかねばならぬ。この件は意見を異にするのでいたずらに長論になるので次に移ろう。
松田 琉球は地理気脈が中国・日本に似ており、人種風俗も両方に似ていると書中にかいてあるが、おかしい。地理も人種も日本に似ている。
三司官 亜細亜(あじあ)州は人種同一なるや。
松田 その内にも区別あり。琉球の人民は骨格薩摩人に似ている。尤(もっと)も言語は交通頻繁な方に似るとの点は異議がない。(以下次回)(富樫 守)