
昨年12月31日に亡くなった韓国原爆被害者協会(以下協会)名誉会長のクァククィフン郭貴勲さん(享年98歳)を偲ぶ会が4月1日、大阪市内で開かれた(主催・韓国の原爆被害者を救援する市民の会)。郭さんは「被爆者はどこにいても被爆者」と訴え、日本政府の在外被爆者切り捨て政策を大転換させるきっかけをつくった人だ。当日は郭さんを偲び、その遺志を引き継ごうという思いであふれた。
郭貴勲さん裁判とは
郭さんは全羅北道で生まれ、師範学校生だった1944年に徴兵第1期生として広島の部隊に配属された。1945年8月6日原爆投下時、爆心地から2キロで被爆。九死に一生を得て帰国した。戦後は教職に就きながら、1967年に協会の設立に参加し、原爆症への無理解と無策の中で、多くの被爆者が貧困と病苦にあえいでいた当時、手弁当で援護活動に奔走した。
現在問題になっている「徴用工問題」だが、その中にはたくさんの被爆者がいる(注1)。郭さんは当初からこの問題を一つのものとしてたたかって来た。1974年に来日して当時の元三菱徴用工被爆者とともに、在韓被爆者の存在を無視しつづけている三菱や日本政府との交渉を始め、その後も粘り強く援護と補償を求めてきた。
1978年、ソンジンド孫振斗裁判(注2)で、在外被爆者は来日して申請すれば被爆者手帳を受け取れるようになったが、医療費や月々の健康管理手当は「日本を出国すれば適用外」というものだった。ほとんどの在外被爆者は経済的、体力的に度々来日できるはずがない。それは広島・長崎の原爆被害者を救済援護するという「被爆者援護法」の精神からの逸脱であり違法であると、郭さんは自ら原告となって1998年10月、大阪地裁に提訴した。
郭さんが裁判の意見陳述で述べた「被爆者はどこにいても被爆者」という言葉は、判決文にもそのまま取り入れられ、2001年地裁、02年大阪高裁で全面勝訴。この勝利は大きな世論を巻き起こし、同年12月18日、日本政府は上告を断念した。
「裁判を手伝えて
光栄に思う」
この勝利とその後の市民の粘り強いたたかいで、韓国だけでなく、世界中に散らばっている在外被爆者の原爆手帳取得、葬祭費、治療費、健康管理手当などへ被爆者援護法が適用され、申請手続きも居住国からできるようになり、被爆者の権利の擁護、拡大につながっていった。郭さんは、原水禁大会にも必ず参加し、ピースボートにも度々乗船して若い世代に語り継ぐなど最晩年まで元気に活動を続けていた。
偲ぶ会では、郭さんの12年前のインタビュー映像が流され、70年代からの在日・在韓被爆者援護や裁判に関わってきた支援者、弁護団、被爆者団体、国会議員、治療に当たった医療労働者など実際に運動を担った人びとから追悼の言葉が続いた。当時、弁護団長だった永島靖久さんは「高裁判決の前、(負けると思って)いま笑っておこうとみんなで写真を撮った」というエピソードを紹介しつつ、「裁判を手伝えて光栄に思う」と語った。
植民地支配を追及
最後に市民の会会長の市場淳子さんが、次のように語った。
―郭さんの「被爆者はどこにいても被爆者」という言葉は、最低限、日本人被爆者と同じに援護をという要求であった。だが、郭さんの根本的な願いは、「植民地支配とその下での強制連行について、日本政府は謝罪し、賠償せよ」だった。しかし、日本国内での「戦後補償裁判」はほとんど全敗という状況で勝てる見込みがない。貧困、病苦、差別で苦しむ在韓被爆者の命をとにかく守らなければならないと、医療費や生活保障を優先して「在外被爆者への援護法適用」を求める裁判に戦術を変更せざるを得なかった。矛盾を抱きながら。徴用工問題がいま政治問題化しているが、市民の会は郭さんの残した課題に向き合って進みたい。
偲ぶ会に出席して、在韓被爆者問題の運動の生きた歴史を学ぶと同時に、この問題が、「加害」の側面から原爆問題を考える大事なエポックメーキングであったことも痛感した。1971年から活動を続けてきた市民の会をはじめ、粘り強く闘いを続けてきた方々に心から敬意を表したい。(新田蕗子)
(注1) 朝鮮人被爆者
広島・長崎の被爆者70万人近くのうち、朝鮮人はその1割の約7万人、爆死者数は4万人と推計されている(日本政府は一度も正確な調査をしていない)。当然、その中に多くの徴用工がいた。90年代に、被爆した徴用工たちが「戦後補償裁判」を起こしたが敗訴。
(注2)広島で被爆し韓国に帰国した孫振斗さんが、1972年日本に密入国し、被爆者手帳の交付を求めて福岡県を提訴、1、2審で勝利し最高裁で確定。在外被爆者も日本に来れば手帳が受けられることになった。