水平社宣言を琉球語に翻訳した金城実さん(左から3人目、2019年3月8日撮影)

 沖縄の彫刻家、金城実さんが水平社宣言を琉球語に翻訳した。琉球遺骨返還訴訟に参加するなかでこのことを知った。私自身は、琉球語を話すことも理解することもできない。金城さんが、なぜ水平社宣言を琉球語訳にしたのか。ジャーナリストの川瀬俊治さんによるインタビューを読んだ。引用、紹介しながら考えてみたい。(高崎庄二)

水平社宣言の衝撃

――「沖縄で部落解放運動の精神を伝えたい」という思いで琉球語に訳した。沖縄の子どもたちに水平社宣言を伝えたい。水平社宣言は衝撃的だった。「なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった」と、人間としての誇りを高らかに謳いあげる。「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」という人間性の回復の叫びに、琉球・沖縄人がヤマトで生きることを重ね合わせた。琉球・沖縄人として生きることが否定されてきたからだ。
水平社宣言は、差別からの解放において最も大事なことを説いている。「人間を尊敬する事によって自らを解放せんとする者の集団運動を起こせるのは、寧ろ必然である」
「人間を尊敬する事」で自分を解放すると言う。自分を卑下したら解放されない。

自分の内なる弱さと

――自分の内なる弱さと闘わなかったら、外からの圧力、つまり差別に耐えられない。その弱さを克服せよと言っているのが水平社宣言である。そして内へ内へと小さくならず、「自らを表現していこう、社会を変えていこう」と呼びかけた。「集団運動を起こせるのは、寧ろ必然である」と述べている。何よりも中心にあるのが、「人間を尊敬する事」なのだ。
宣言のクライマックスは二つある。一つは「兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰者であり、実行者であった」から、「なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった」まで。もう一つが、「そうだ、そして吾々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ」から、「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」までである。

「エタであることを誇る」

――「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」は、どういう思いでこれが書かれたのか。差別用語であるこの言葉を浴びせ、差別にさらした相手に切り込む刃物となる。しかし、この刃物は一歩間違うと自分を切り落とすという覚悟がなければならない。
縮こまり身を隠すのか、逆に身をさらすのか。人間の尊厳を回復する営みは、自己の弱さとの闘いだ。差別語を反転して「誇り」にまで高めるのは、単なるレトリックではなく内的な葛藤を経て差別社会に向かって闘うことを突き出した宣言でもある。

「土人」の誇りと沖縄

――ここで「土人」という言葉が思い浮かぶ。大阪の人類館(1903年、大阪・天王寺で開かれた第5回勧業博覧会で起きた、「土人」として「沖縄人」が「展示」された事件)、その2年前の1901年には、地理の教科書に「土人」として琉球、台湾、アイヌが記述されている。
それ以前には、琉球処分官・松田道之の発言もある。1872年に、琉球人を「土人」と呼び、軍事力による制圧で臨み、琉球藩を設置する。1879年の「琉球処分」では、警官100余、陸軍歩兵400余人を引き連れ琉球に入った。
それから150年を経た2016年に、辺野古の反基地闘争の現場で沖縄の芥川賞受賞者の目取真俊さんが、大阪府警の警官から「土人」という言葉を浴びせられた。
私は誇り高き琉球の「土人」と名乗る。「土着人」とは、その土地に住むという意味であり、先住民であり「土人」の語源である。「土人」の誇りなくして、琉球の独立などありません。差別語を反転して「誇り」にまでに高めることでしか、わが沖縄はヤマト、アメリカの植民地からの解放はないでしょう。沖縄で「土人」としての誇りをもって挑む。
水平社宣言は解釈を深めることを求めていない。「人間は尊敬すべき」。だからこそ、生き方に跳ね返る。

宣言は昔話ではない

――水平社宣言は、昔話ではない。現在の沖縄の人権感覚の弱さを知るためにも必要である。弱さとは何か。在沖基地問題と平和問題の取り組みは当然のこととしても、それ以外の人権問題の取り組みは弱い。米軍の職員にひき殺された海老原鉄平くんのこと、米兵にレイプされた女性のことなど、集会でアピールを求めたが拒絶された。米軍に起因する人権問題が、なぜそれほど重視されないのか。
狭山事件の冤罪を晴らすため石川一雄さんが闘っている。一人の人間のいのちにかかわる差別問題、人権問題の解決のため、部落解放同盟では中心的な闘いの一つとして位置づけられている。素晴らしいことです。沖縄はどうか。100年前に、被差別部落民が勝ち取った「糾弾権」が、沖縄には、なぜいまだにないのか。
宣言に「エタであることを誇りうる時が来たのだ」という言葉がある。「琉球沖縄人であることを誇りうる時が来たのだ」と、高らかと胸を張り言えるのかどうか。水平社宣言の琉球語訳に取り組んでいるのも、誇りうる琉球語のため。

沖縄に「熱あれ、光あれ」

――平和問題で政府に責任を問い、抗議することがない。当初あっても尻すぼみになってしまう。沖縄には、糾弾の思想が育っていない。糾弾という文化がない。陳情型ですよ。大阪に30年住んで、部落解放運動の糾弾権を知ったから、よくわかる。
歴史は、過去から現在を捉えて未来につなぐもの。だから、評価するものは評価し批判するものは批判する。沖縄が闘うためにこそ、水平社宣言を読む意義がある。人権問題にかかわり、世界でこれだけ素晴らしい宣言文はない。
「人の世に熱あれ(チュ ニンジンヌ イチミンカイ、ニチ ウタビミソーリ)、人間に光りあれ(チュ ニンジンニ ヒカリ ウタビミソーリヨー)」
「熱あれ」「光あれ」に、共通するのは文末の「あれ」。つまり「願う」。

狭山再審を求める市民の会の交流会に参加したことがある。50代の人が、「小学生の時、狭山差別裁判の闘いに参加していた。同盟休校とか黄色いゼッケンをつけて学校にいくのがイヤだった」。解放教育とは何か。「学業の成績を上げることではない。いい学校、いい会社に入ることではない。差別と闘う心を学ぶところ」という話を聞いた。
差別との闘いは、内面を通して進んでいくもの、それが「解放につながっていく」と教えられたと思う。
これからも、狭山事件・石川一雄さんの再審開始、無罪判決をかちとる闘い、沖縄・辺野古新基地に反対する行動を続けていきたい。