松田道之(1839-1882)琉球処分官として琉球藩廃止と沖縄県設置(琉球併合)を強行した

琉球併合の経緯の続き。辺野古との関係は。国連人種差別撤廃委員会は、沖縄の人びとは「先住民族である」とし、沖縄への米軍基地の集中について「現代的な形の人種差別だ」と認定した。
「先住民族」と言っても、「独立しなさい」と言っているわけではない。先住民族の定義は「政治的に劣勢な地位にある集団で、その国の支配的な地位にある集団のものとは異なった、同じエスニック・アイデンティティを共有し、現在統治している国家が支配を及ぼす以前から、その地域において、エスニックな実体をなしていたもの」となっている。平たく言うと、「沖縄は『琉球処分』される以前から、独自の政治・文化を有していましたよ。その、戦さを嫌うなどの文化・伝統を無視し、嫌がる軍事的基地を集中させるのは『現代的な形の人種差別』ですよ」と言っている。
私たちは、この国連人種差別撤廃委員会の見解を基地撤去への援護として受け取っている。そういうこともあり、琉球併合の事実を知ることが大切になってくる。
そこで前回の続き。文献は『琉球見聞録』で、当時の筆談を記録した喜舎場朝賢(きしゃばちょうけん)の著である。文中、支那と言っているのは、清国のこと。三司官は「さんしかん」と読み、行政のトップスリーだから「三司官」です。

清国と琉球国の関係

松田道之 当藩(琉球国)は、昔は日本、支那(ママ)、朝鮮、暹羅(しゃむ)、瓜哇(じゃわ)国など交通したがいずれも服従なしと(書面に書いて)あるが、日本へは推古天皇の時より朝貢を始め、その後日本の世が乱れ武門の政権あり対応ができなかった。その時期に琉球が勝手に明国の招きに応じ私義を結んでしまったが、そのことに何もしなかったのは日本の失策であった。けれどもこれらは往古のこと。これはこれで措(お)くとして、その後、慶長年間、薩州の侵略(原文:入寇)に遭(あ)って、ついに五島(奄美群島)を取られてしまっても(原文:割取に至るも)、清国がこれに対して何とも言わないのは、清国が琉球を本当の管理下においているとは思っていないことの証拠ではないのか(原文:支那(ママ)は之を管せざれば、真の管轄とは思わざるの明証にあらずや)。
三司官 否な。この義は当藩より支那(ママ)へ云わなかったので何の問題(原文:沙汰)もなかった。
松田 なるほどその時はさもあったであろうが、今に至る二百年間、(清国が)知らずに経過するとは誠に承服しがたい。
三司官 日本の事は支那(ママ)政府より時々聞いてくるが(原文:尋問に掛かるも)、日本には従属せざる旨を答弁し、且つ琉球が貧弱なる小邦であるため、日本へ従うことなくては(原文:随従せざれば)、到底(国として)成立し難きを支那(ママ)が察して、この様に不問にしたものと推測している。
松田 それはおかしい。外国人等において、当藩(琉球)は支那(ママ)の管轄と思えば、外国人は当藩のことで支那(ママ)と条約を交わしたであろうが、日本へ申し立てて条約を取り交わすのを見れば、外国人も(琉球が)支那(ママ)の管理とは思わなかったことは明白である。
三司官 条約は当藩にて保存して置いたところ、内務省より御用ありと(言われ)、しきりにお断りするも、内務省が聞いてくれなく(聞き届けなく)、やもうなく差上げたものである。
~と談判は続く。「日本に申し立てて」の部分は事実関係がわからない。外国が日本と交渉しての意味か、それとも琉球が薩摩(日本)に断りを得て条約を結んだことを指すのか不明である。後者と思うが、「その条約」と言っているのは、琉米条約(1854年)、琉仏条約(1855年)、琉蘭条約(1859年)のこと。三司官たちも松田の言っている意味がわからないのか、反論せずに条約は維新政府が「召し上げた」と言っている。
これらは、琉球が「先住民族」という証拠の一つであったと示している。長くなるため、ここまでに。
(富樫 守)