空爆犠牲者慰霊之碑=6月3日、兵庫県明石市

「あかし戦跡めぐり」(ピースネット明石)が行われ(6月3日、4日)、78年前の明石空襲を語り継ごうと26人が参加した。
山陽電車の西新町駅北口すぐ西に「空爆犠牲者之碑」(写真上)がある。山電車両部に勤務する田中一吉さん(61)から、明石車両工場の空襲被害と「空爆犠牲者之碑」建立の趣旨を聞いた。慰霊碑は戦後33年の8月に除幕、会社と労働組合連名による「空爆犠牲者に捧げる」と碑文に記される。犠牲になった30人と名前のわからない1人、計31人の名前が刻まれている。

戦没者を慰霊する大地蔵=6月3日、兵庫県明石市・密蔵院

続いて平安時代からの由緒あるお寺、「密蔵院」を訪ねる。ガイドの牧野満徳さんからお話を聞き、戦没者を慰霊する大地蔵を見た(写真下)。望海浜公園から明石川をさかのぼる。河口近くに水上艇の工場があったそうだ。大観小学校南の地下トンネルは、防空壕として使われた。市内の高校新聞部の高校生も同行、取材し「教科書では知ることができなかった。戦争を語り継ぐことの大切さを思った」と話していた。
川崎航空機工場と関連軍需工場があった明石は、1945年、明石は6回の空襲を受け死者1500人を数えた。 
4日は「神戸の戦跡ウォーク」。神戸空襲を記録する会の呼びかけ。50人が参加し、1945年5月11日の東灘の空襲跡を巡った。JR甲南山手駅から近くの森神社の赤鳥居へ。田辺眞人さん(園田学園女子大名誉教授)は、「この辺りは、当時は田畑が広がる漁村だった。大きな赤い鳥居が川西航空機甲南製作所を攻撃する米軍機の目印になった」と説明した。
少し西、旧本庄村の墓地にある空襲犠牲者慰霊碑。小城智子さんから説明を聞き、深江にある生活文化資料館で戦争資料の展示を見学した。そのあと本庄中学校へ。藤本吉江さん(87歳)、長岡正明(84歳)さんから戦争体験を聞く。藤本さんは「防空壕の中の様子、聞こえる音が怖かった。お母ちゃん、死んだらあかんと叫んだ」と話した。
今はテレビに戦争がリアルに映し出される。78年前、日本にも実際に戦争が、空襲があった。「風化させない。戦争をしてはならない」と、多くの人たちの手で慰霊碑や遺跡が残されている。今の市街地の姿から想像するのは難しいが、それらを巡り反戦の想いを強くした。    (江戸信夫)