回収された森永のドライミルク

「松田妙子さんを偲ぶ」を読み、あらためて松田さんのことを感慨深く思い出しました。松田さんとは何回かお話ししたことがありますが、彼女が森永ヒ素ミルクの被害者とは知りませんでした。
連載を読んでいる時に、たまたま山田真さんの『闘う小児科医』を読んでいました。山田さんは、あの大学闘争のころ東大医学部の学生でした。青年医師連合のメンバーでもあったそうです。
その本の中で山田さんが、森永ヒ素ミルク事件について言及しています。ぼくは障害者運動にかかわっている中で、何人か森永ヒ素ミルクの被害者の知り合いもいました。大阪の天満にあった「ひかり協会」にも行ったことがあります。しかし恥ずかしながら、森永ヒ素ミルク事件について概要を知ることなく、これまで過ごしてしまいました。
事件は、1955年に起こっています。森永乳業徳島工場で生産されたドライミルクに、古い牛乳を溶かす安定剤として第2リン酸ソーダを添加していたのです。
この第2リン酸ソーダは、もともと日本軽金属がボーキサイトからアルミナを製造する時に出来た副産物らしいのですが、そのときヒ素が混入したものが何社かの手を経て協和産業から森永乳業に納品されたのでした。
ヒ素は猛毒物質です。明治天皇の父親の孝明天皇が、岩倉具視らにヒ素で暗殺されたという説が消えません。それはともかく、130人の死亡者を含む12344人の被害者が出ました。
むちゃくちゃです。「母乳より森永ドライミルクを飲ませた方が、頭がよくなる」とか言って販売していたのです。食品というより工業製品です。水俣病の公式確認と同じころに発生しています。岡山大学の医師が森永の責任を隠しました。
ぼくは1953年、京都生まれです。養護学校のスクールバスの通学路、9条通りに面して森永乳業の京都工場がありました。京都には、森永ヒ素ミルクの被害者はいなかったのだろうかと、今になって思います。あと2年すれば、森永ヒ素ミルク事件から70年です。 (こじま みちお)