
日中貿易の振興を図る任意団体、日本国際貿易促進協会(河野洋平会長)の訪中ミッション(約80名)が7月3日、北京に向け出発する。訪中団には沖縄県の玉城知事も参加し、国家指導者と会談する。玉城知事は6日に団を離れ、福州を訪問する。これについて『人民日報』(中国共産党機関紙)が6月4日、次のように習近平国家主席のことを報じたという。
福州の琉球館の「波紋」
「私が福州(福建省の省都)で働いていたころ、福州には琉球館と琉球墓があり、(中国と)琉球との往来の歴史が深いことを知った。当時『閩人(びんじん)三十六姓』が琉球に行っている」と話したという記事を載せたそうだ。
日本では「波紋が拡がった」らしい。たぶん、日本のある筋の人たちが、習主席が「琉球は中国の属国だった」と言うのではないかと心配してのことだろう。もちろん琉球は中国の属国ではなく独立していたが、日本の方にはあまり国際社会に知られたくない「琉球併合」の事実がある。そこに飛び火することを恐れたのではないか。
これまでも折に触れ琉球の歴史を取り上げてきた。今回も「あまり知られたくない歴史」学習シリーズを…。
明治8年(1875年)、後に処分官となる松田道之が琉球側の行政トップ3である三司官と会い、3つの改革を迫った。則ち、中国の清と関係を絶ち、日本暦を用い、職制を改める(王制をやめ、日本の他府県並みの職制にする)こと。そのうちの「清との関係を断て」の部分を、前回に紹介した。今回は、この時32歳になっていた尚泰王が後日、外国のジャーナリストに述懐したことを紹介する。
冊封を受けることはできない
「…明治5年(1872年)、わが王府は鹿児島県知事の命に従い東京に維新慶賀使を派遣したところ、思いもよらず日本の天皇から琉球国王を琉球藩王に任じ、琉球国を琉球藩となして日本の直接統治下に置くとの勅令が下った。鹿児島県知事は(琉球国が)命令に服従する旨の文書を正使伊江(いえ)王子に手渡した。正使は(われわれは)「清国からすでに冊封を受けており、今さら日本から藩王の冊封を受けるわけにはいかない」と断固拒否の意志を伝えた。
説明をはさむと、冊封とは「中国皇帝の下にその国の王であるとお墨付きを貰うこと」である。鹿児島県の知事は、当時は参事と言っていたように記憶しているが、琉球国が薩摩藩のくびきにつながれていた腐れ縁があり、明治になっても彼らが琉球国に差配した。
尚泰王の述懐を続ける。「だが鹿児島県の知事は、勅命に従わないとなれば天皇に対する謀反であり、琉球も他の県同様の支配を受けるしかないぞ、と厳しく言った。窮地に立たされた正使は、やもうなく独断で勅命を受けることになった。使節は帰国するや国王である私と三司官らに、ことの経緯を報告した。正使のうかつな判断に、私だけではなく三司官はじめ役人はがく然として色を失った。勅命受諾をくつがえすため嘆願書を出すべきではないかとの意見も出たが、何か大きな災禍をもたらすのではないかと恐れ、しばらくはこれに従うことにした。」
「その後、叙任を拒否すべきだということになり日本政府に告げたが、太政官はどうしても納得しない。『藩王に任命されたとき、ありがたく拝命します』と言ったではないか、と言う。確かにその通りだが、鹿児島県参事の指示に従ったまでだ。やもうなく藩王の冊封を受けることになったが、それも日本が琉球の構成や政体を変えないことを了解してのことであった。したがって明治6年にも7年にも、従来どおり貢物が清国へ送られた。ところが明治8年、日本は中国皇帝(光緒帝)即位の慶賀使派遣も進貢もまかりならんとの布令を発した。全琉球人はこれを日本側の信義の重大な背信とみなした。
(ところで)日本の書物には、神武天皇の時代にヤケー(屋久島)とヤニカという者どもが朝廷に献上物を持って来たと記されている。この者は琉球人である、それ以来、琉球は日本の管轄下に入った、となっている。
しかし、諸書をよく検討すれば、こうした記事が正確でないことがわかるだろう。我が国は薩摩侵攻以前、日本と友好関係にあった隣国とみなされていたことがわかる。両国の友好関係を示す文書も保存されている。それによるとわれわれは当時、日本の管轄下にはなかったということが結論となっている。その上、ヤケーとヤニカなどという名前は、我が国(琉球)の古い史書には見当たらない…」(一部意訳)。
聞き手は、たぶんイギリス出身のJr.ブラックだろうと思うが、尚泰王の話が終わるとブラックは「私は、これ以上明白で信用の出来る記述は、日本によっても清国によっても行われなかったと思う」と感想を述べている。このあと、「しかし」と続くが、省略しよう。なお、ブラックは政府に雇われるほどの筆力があったが、新政府の施策を自由に論評したため解雇された。その後、日本滞在記『ヤングジャパン』(東洋文庫)を執筆し、その中に「琉球王の説明」という小項に以上のことが記載されている。
ブラックは日本で亡くなる。その子どもは戦前、快楽亭ブラックの名で落語家になっている。現在は名前だけを継いだ落語家、二代目快楽亭ブラックが活躍している。初代ブラックが政府のプロパガンダにならず少しの反骨精神があったため、その名を継ごうとする人が生まれるのだろう。(富樫 守)
