水上勉・著『続日本紀行』(平凡社、1976年刊)

「略奪、暴行」

小説『古河力作の生涯』(大逆事件で死刑になった人)を書いた作家水上勉は若い頃、京都府職業課員として満蒙開拓青少年義勇軍の募集係をしていた。貧しい農民の親子の姿を、後に『続日本紀行』(写真左)に書き留めている。
満蒙開拓少年義勇軍は、満州移民の一つの形態であり、満州移民は様々な形で行われた。満州移民を最初に言い出したのは、後に「満蒙開拓の父」と言われた加藤完治であるが、実際に満州移民が動き出したのは、関東軍が満州事変を起こしてからだった。1931年頃は世界恐慌のあおりで生糸が暴落し、全国の農民は悲惨な状態にあった。そういう状況を救済する名目で、関東軍は開拓移民計画を発表し満州移民を推進していく。  
1932年10月、「先遣隊」の試験移民が北満州ジャムスヘ派遣された。試験移民団は、関東軍から武器弾薬、軍服、防寒具を与えられ「完全武装」して目的地へ向かった。しかし、ジャムスで「匪賊」の襲撃に遭うなどしたために移民団約500名の気持ちは揺れ、「だまされた」という気持ちも湧き上がっていった。彼ら開拓移民団の怒りの矛先は中国人へ向けられ、地元民への略奪、暴行、強姦にも及んだそうだ。「匪賊よりも恐ろしい日本人移民」と陰口を言われたそうだから、いかに乱暴であったか。
この独身男性による「武装移民」は、1931年の第1次から36年の第4次まで続いたが、あまりに問題が多く家族移民政策へと変更される。政府は、貧困にあえぐ農村から満州移民を送り出す「分村移民」計画を打ち出した。全国の村ごとに〝適正規模〟を勝手に決め、それを上回る人びとを満州移民にするという拓務・農林省の移民事業である。
満州移民を多く送り出した県は長野県だが、分村移民で最も悲劇的だった熊本県のきたみ来民村開拓団について述べる。
熊本県は政府の政策にのっとり、来民村の住民を満州移民に駆り立てた。来民村が被差別部落であったために、移民を推進する拓務課と融和事業を担当する社会課が連携し、移民を勧めた。「渡満すれば差別は解消する」「20町歩の土地が与えられる」「兵隊にとられることはない」という誘いに、住民の気持ちは動いた。(こじま みちお)