
沖縄ではコロナが再燃し、オール沖縄企画の抗議集会なども中止、延期となっている。医療現場が崩壊に近いという悲鳴も聞こえてくる。それでも辺野古埋め立て工事は着々と進み、抗議阻止の行動も続いている。「台湾有事」と危機を煽る自衛隊の強化も進んでいる。私たちの方にも近々、全県規模の組織作りの動きがある。戦争の危機を防ぐ政府による外交努力には目立った動きはない。
琉球国墓詣でに誹謗
7月に民間の日本国際貿易促進協会の中国訪問があり、玉城デニー知事も参加した。玉城知事は中国福建省にあった旧琉球館を見学し、「琉球国墓」に詣でた。
マスコミの扱いはどうだったか。テレビ朝日の「大下容子ワイドショー」は玉城知事に焦点を当てた。コメンテーターが、「中国は沖縄を厚遇している。米軍に強くあたる沖縄を味方につけ、日本の分断を図っている」と話した。「琉球」という言葉にも敏感になっているようだった。
フジ・産経グループ、ニッポン放送の対談番組(7月9日)では、「(玉城知事の)旧琉球館視察は、琉球館が当時の琉球国の出先機関、朝貢貿易の時代の出先機関であり、そこを訪れ頭を下げるのは朝貢貿易の再現、中国の沖縄帰属論宣伝に利用されかねない」とコメントした。民間平和外交、緊張緩和へ賞賛されこそすれ批判するとは。あきれるほかはない。琉球の歴史が、彼らにとって不都合な事実だからだろう。今回も、琉球併合前後の歴史を見ていく。
福建の交易連絡所
琉球国時代、福州には琉球館が置かれ琉球使臣の宿泊所兼交易連絡所として用いられていた。墓も置かれた。同じく薩摩藩の鹿児島にも琉球仮屋(のち、琉球館)があった。
朝貢貿易あるいは冊封(さっぽう)については1372年、明の洪武帝の招諭に応じて琉球の中山王が入貢(朝貢)し、中国の冊封体制に入り貿易が続いた。明、清時代は中国の港はオープンにされておらず、鎖国に近い政策を取っていた。貿易は、冊封関係の国とのみできた。冊は皇帝の文書の意味。冊封とは、中国皇帝の「地域での王であることを認める」という文書をもらう関係であり、名目上の君臣関係を作り上げること。もちろん琉球だけではなく、ベトナムなど近隣諸国はそのような関係になり、室町時代の足利義満も日本国王という冊封を受け貿易することに成功している。
中国は「君」であり、「臣」になる冊封を受けた国が朝貢という挨拶に行くと、多くのお土産をもらう。それで毎年行くようになる。すると中国は出費が多くなるから、毎年の朝貢は遠慮してくれと頼むようになる。尊大なところを見せなければならない中国をくすぐって利を得るのは、小国の知恵だったろう。
このように冊封関係は、名目の君臣関係であり支配被支配関係ではない。むしろ1609年以降の薩摩と琉球の関係は、薩摩が那覇に在琉球藩番所を置き琉球を監視し、間接的に支配・被支配関係を作り上げている。
公務途中の物故者
以上を予備知識として、本題に入る。玉城知事が「琉球国墓」を訪れたことに、前述のコメンテーターや今回の訪問を歓迎しない人たちは不満、不安を持っているようだが、その墓に埋葬されている人は公務の途中で亡くなった人たち。「琉球処分」(1879年)前後に埋葬された人も含まれる。その人たちは、清国に琉球の窮状を訴えに行った人である。
明治8年、日本政府は琉球に清国への進貢及び清国よりの冊封の差止めを命じた。それに対し、清との関係を従来通り認めてほしいと日本政府に陳情していた琉球の上層部は、らちが明かないとみて清国に窮状を訴えることにした。翌年の末に密使を送ったが、日本政府にキャッチされてしまう。琉球国にとっては密使ではなく外交使節なのだが、明治政府より清との外交関係を断ち切るよう命令が出されており、関係者の処分が行われ琉球へ帰ってこられない者、自殺した者も出た。
墓にはそのような関係者が入っている。習近平主席は「福州には琉球人の墓がある」と述べただけなのに、玉城知事の墓参りが民間外交に否定的な人たちから邪推された。(つづく/富樫 守)
