
映画『NAGASHIMAかくりの証言』の上映会が行われた(6月28日、大阪府吹田市内)。長島愛生園がある岡山、元山陽放送カメラマンだった宮崎賢さんが監督したドキュメンタリー作品である。上映会を企画し、運営した吹田人権シネマの会の佐野哲郎さん(72歳)に、ハンセン病とのかかわり、映画について話してもらった。(聞き手/大島秀夫)
ドキュメンタリー映画『NAGASHIMAかくりの証言』は、岡山県瀬戸内市にある国立療養所邑久(おく)光明園、長島愛生園に暮らす人びとの声を伝える。
「背中に〝かくり〟と書いて貼って歩いている、その気持ちが、今でもあるんです」という年老いた女性の言葉に、衝撃を受けた。彼女は「昭和13年5月20日、12歳の時に、ここに来ました」と話し、在所年数は82年に及ぶという。別の男性は「海は厚い壁。島流しのようだ。島だけの人生になる、家には帰れんと思った」と語る。

――ハンセン病問題に関心を持たれたのは、なぜ、いつごろから。
佐野哲郎さん 「政治の季節」と言われた1970年代、学生や若者たちが政治や社会、ベトナム反戦などで大きく動いていた時代。全共闘運動に参加していた友人が長島愛生園を訪ね、入所していた人たちと交流していた。そこに誘われました。
その前1963年、ハンセン病が完治したロシア人が東京のホテルで宿泊を拒否されるということが起こった。当時、同志社大学の教員だった鶴見俊輔さんがホテル側に抗議したが、聞き入れられない。同大の新聞学ゼミで、その体験を学生らに話した。
そうすると、学生たちが「回復者のための家(後の「むすぶ家」)を造ろう」と立ち上がり、建設のための用地探しや資金確保に奔走し始めた。京都、大阪、奈良、神戸の街頭で学生たちが実施した募金活動で約40万円が集まった。大卒初任給が約2万円だった当時、「考えられないような大金」でした。
建設には約4年がかり。学生団体が中心になり近畿一円から延べ約5千人が参加した、過去に例を見ない建設運動でした。「家」が完成したのは1967年7月。
いまは鬱蒼(うっそう)と葉が生い茂る巨大なヒマラヤ杉の隣に、年季の入った鉄筋コンクリート2階建ての「むすびの家」が静かに佇(たたず)む。提唱した鶴見さんは昨年7月、93歳で亡くなりました。
現在もNPO法人「むすびの家」理事長として建設、運営に当たってきた湯浅進さん(72)が、「家」を見上げて感慨深く語っていますね。「まさか50年も続くとは思いもしませんでしたよ」
――上映会をしようと思われたきっかけは。
佐野 FIWC(後述)の後輩のキャンパーから監督を紹介してもらいました。名も無き人びとの89年にわたる国の終生絶対隔離政策への慟哭…。
平均年齢88歳、歴史から忘却されてはならない、証言を歴史の教訓として残さなければという思いに駆られました。映画を見た後、宮崎賢監督と話し合い、すぐに上映会をやろうと決めました。
――FIWCとは、どんな活動ですか。
佐野 フレンズ・インターナショナル・ワーク・キャンプ、日本のハンセン病療養所や、韓国をはじめ海外のハンセン病定着村や災害発生地などでワークキャンプを行う団体です。
――長島愛生園に通われました。印象に残っていることを…。
佐野 1970年代には、なんども長島愛生園や邑久光明園などに通いました。在日朝鮮人の秋洪琪(チュホンギ)さん。ぼくらは、あきやんと呼んでいました。よく食事をごちそうになりました。
――ハンセン病と病者には、さまざま差別と偏見が続きました。
佐野 ハンセン病は、1943年に有効な治療薬「プロミン」が開発され、1960年代には国際的に隔離政策廃止が提唱されました。しかし、日本では「らい予防法」によりずっと続けられた隔離政策があり、科学的知見に基づかない差別や偏見が根強く残ってきた。予防法が国会で廃止されたのも、ようやく1996年になってから…。
――あらためてこのドキュメンタリーの意味、どうお考えですか。
佐野 ドイツのヴァイツゼッカー元大統領の「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目(ママ)となる」という言葉が映画の終わりにあります。断種、堕胎児の保存、解剖、草津の重監房送り、無らい県運動…。元患者さんの苦しみ、高齢化、貴重な証言もやがて歴史の表から風化されていくでしょう。偏見や差別の中で続けられた人権はく脱、89年に及ぶ「終生絶対隔離政策」の不条理…、映画からは歴史から学ぶことの大切さが伝わってきます。
――どのような言葉やシーンが印象に残りましたか。
佐野 さまざま、お世話になった方々に映画の中で出会いました。既に鬼籍に入られた方も多く…。特に園に反抗した患者を監禁した「監房」、さらに厳しい懲罰施設「草津」送り、群馬県栗生楽泉園の「重監房」での獄死。「死者を焼く煙」…。「煙になってしか故郷に帰れなかった」という言葉の持つ重みに、胸を打たれました。
映画に出てくる「邑久高校新良田(にいらだ)教室」は、1953年の「新らい予防法闘争」(注)の過程で実現した高校です。勉強をしたい人たちが全国の療養所から集まる、学びの場でした。
――今回の上映会は70人を超える参加者がありました。今後の上映会については。
佐野 各地で上映が行われ、できるだけ多くの人に見てもらいたいですね。特に中高校生や大学生に。わが国の犯した、「絶対・終生隔離」政策の過ちを学んでほしい。
宮崎賢監督から、「『NAGASHIMAかくりの証言』がノルウエーのハンセン病国立資料館に永久保存されることになった」とメールが届きました。これからも上映会が広がるよう、みなさんとともに尽力します。
▼自主上映などの問い合わせ=PC、スマホで『NAGASHIMAかくりの証言』と検索。
(注)当時の厚生省が癩を「らいと表記を変えただけ」への抗議運動。
