
「ふくしまに おいてきたんだ ぼくは ほんとの自分を」―サンボマスターの「アイラブユー福島」を聞くと今でも胸がいっぱいになる。
福島第一原発が爆発した時、私は関東C県に住んでいた。遠い他府県から来てくれた妻と一緒に暮らし始めたところだった。2号機から放出された放射能プルームが近くを通過したらしく、地表に置いた線量計が私の町で0.2、隣町では0.6μSvを記録していた。事故収束の見通しが立たず、これからずっと放射能に怯える生活を妻に強いるのがしのびなくて、生まれ育った大阪への避難を決めた。
会社をやめる、と伝えた時、「他のみんなが復興支援でがんばっているのに君は逃げるのか!」と社長が激怒した。私を「説得」に来た部長は「もう決めたんだろ? 説得したけどダメでしたって社長には報告しとくからよ。向こうで元気にやれよ」と食事をおごってくれた。同僚社員は「俺たちは家も畑もあるし親もいるから逃げられない。でも田中さんは逃げるところがあるんだから逃げた方がいいよ。放射能怖いもんな」と背中を押してくれた。「地元業者は日産いわき工場再開のために総動員されてる。一時避難したら村八分になって家には帰れない」としみじみ話すいわき出身の同僚もいた。返す言葉がなかった。
兼業農家の先輩社員から大量の小松菜をもらった。「出荷停止になっちまってよ。おめえも放射能まみれの小松菜なんか食わねえよなぁ」「いや、しっかりゆでれば大半のセシウムは落ちるそうですよ。大丈夫ですよ!」「そうかぁ?ほんじゃこれ食ってけろ」。どうしても断る気になれず、避難するまでの間、山盛りの小松菜を毎日食べた。
大阪に帰って数年後、その先輩から電話がかかってきた。「おめも知ってるべ、AさんとBさん。ガンで亡くなってよ。Aさんは夫婦2人ともガンで死んじゃった」「え、まだ50才じゃないですか!?」「若いのになぁ…お互い健康には気をつけような」「…そうですね、先輩もお大事になさってください」。それだけの会話。社員50人の中小企業の話だ。放射能を意識しないわけがない。しかしそれを口にできないという暗黙の了解。
大阪のハローワークは自主避難者も「退職を強いられた」ものと解釈し、即座に失業保険を支給してくれた。窓口の職員が神々しく見えた。無一文で始めた大阪生活だが、10年間必死に働いて今は少し余裕もできた。妻を守れてほっとする反面、あの時引き裂かれた自分はずっとそのままでいる。
