今年は朝鮮戦争の休戦協定から70年目。その節目の年に東アジアの非核・平和の実現を考える集会が開かれた(7月29日、大阪市内)。集会で講演した高橋博子さん(奈良大学教授)は「日本は米国の核抑止論への依存から脱却しなければならい」として、次のように話した。    (池内潤子)

核廃絶の意志を継ぐ

原爆が投下された直後の1945年8月10日、朝日新聞は「(広島・長崎で使用された)新型爆弾は蓋がある壕に身をかくせば大丈夫」という記事を載せ、原爆の威力を隠ぺいしようとした政府・軍部に協力した。同日、日本帝国政府が米国政府に送った「新型爆弾攻撃」に対する抗議文でも、「毒ガスその他の兵器をはるかに凌駕」する威力を持った兵器と表現し、それが核兵器であることを隠し続けた。
一方、米国内では『デイリー・エクスプレス』が「原爆投下から30日後も、人々はかの惨禍によってケガをしていなくても、『原爆病』としか言いようのない未知の理由によって、いまだに不可解かつ悲惨にも死亡し続けている」(45年9月5日)と放射線被害の深刻さを報道した。すると、マンハッタン計画の医学部門責任者だったスタッフォード・ウォレンが「日本の二つの都市で起こった上空での原爆の爆発では、爆風やガンマ線・中性子の放射によって殺傷するが、危険な核分裂物質は亜成層圏にまで上昇し、そこで消散させられる。都市は危険物質によって汚染されるわけではなく、すぐに再居住してもさしつかえない」と核の危険性を打ち消す発表を行った。敗戦後、占領下の日本ではGHQによる報道管制によって核兵器の残虐性に「箝口令」が敷かれた。
しかし、1950年に始まった朝鮮戦争で「核兵器の使用」が取りざたされると、同志社大学で「原爆展」が開かれた(51年)。集会の自由が制限されるなかでの開催だった。翌52年には、8月6日の『アサヒグラフ』特別号が原爆の惨状を記録した写真を出版物として初めて公開した。被爆の実相を世界に知らしめなければという編集長の決意の表れだった。
こうした核廃絶に向けた先人達の営為を踏みにじったのが、「核軍縮に関するG7サミット広島ビジョン」だ。それは「我々の安全保障政策は、核兵器はそれが存在する限りにおいて防衛目的のために役割を果たし、侵略を抑止し、ならびに戦争および威圧を防止すべきとの理解にもとづいている」と述べて、防衛目的、侵略抑止の手段として核兵器を正当化した。日本は「核兵器を直ちに違法化する条約に参加すれば、米国による抑止力の正当性を損なう」として核兵器禁止条約への参加を拒んでいる。
東アジアの非核・平和のためにはまず日本が核抑止論から脱却しなければならない。