晩年の尚泰王(1843~1901)那覇市歴史博物館 提供

「USJ」という構想

日本国際貿易促進協会の中国訪問に合わせ、人民日報系雑誌に琉球関連の記事が組まれ、その一部紹介が7月19日に、琉球新報3面にちょっと掲載された。雑誌には「現在の琉球は日本の実効支配下にあるが、歴史上、琉球の主権が日本に属すると定めた国際条約はない」と書かれているものらしい。
「実効支配下」など間違った認識であり、全文一笑に付してよいもの。しかし、このような物議を醸す背景は存在していた。今回も、その歴史的背景を述べる。その前に叙述者の立場を述べておこう。
日本では、長い間「道州制」が論議されてきた。一道十三州案があり、沖縄は福岡州に入れるとか、独自に沖縄州にするとか、複数の案が飛び交う。私は、沖縄を独自にUSJすなわち、United States of Japan構想が良いと思う。
翁長知事は、「品位ある民主主義」を唱え「沖縄の事は沖縄で決める」と自治の歩を進めた。その辺りが、県民の最大公約数だろう。辺野古新基地反対を掲げた衆議院、参議院選挙の結果や県民投票の結果も無視されるなら、品位ある民主主義ではない。地方自治がしっかりした「州」ならば、例えば今、沖縄県が頼りにし、いつも裏切られている「国・地方係争委員会」では、法の趣旨である「国と地方が平等である」との見地からの判定が想定される。
そうなれば辺野古の問題も違った展開になっていただろう。台湾有事を煽られ、沖縄が再び戦場になることはないだろう。沖縄州にどこまで自治の権限があるか、まだ論議はされていないが、現在の課題の解決としてUSJを考える。

琉球併合

前書きは、ここまで。前回の続き。明治8年に清との関係断絶を命ずる明治政府に対し、琉球政庁は東京に陳情を何度も行ない、アメリカ、フランス、オランダの代表にも密書を送って国外の世論に訴える。清国も、この問題について外交交渉を始めた。やり取りをしている中、明治12年(1879)3月、政府の意向を受け松田処分官が40名ほどの官僚、160名の警察官、それに熊本鎮台の兵士300~400名を連れて25日に那覇に到着。松田処分官は、月末に琉球藩を廃止して沖縄県を設置することを通知し、その2日後に部下を引き連れ首里城に無抵抗で進軍した。
このとき、尚泰王は「いくさ世(ゆ)ん しまち(終いにして) ミルク世や(平和の世)やがて しわ(心配)すなよ しんか(臣下) 命ど宝」の琉歌(8・8・8・6音)を詠んだと伝えられていたが、これは芝居の中でのこと。実際にはなかったようだ。
病気だった尚泰は快癒し、5月27日、東京に向けて出航するが、その旅立ちに沿道には見送りの人が並び、私の祖母も母親に連れられ見送ったと亡父から聞いた。そんなに遠い昔話ではない。
この明治政府の強引なやり方に、清は猛反発した。戦争にも発展しそうな勢いの中、明治13年(1880)、元アメリカ大統領のグラントの仲介により、琉球諸島を日本と清との間で分割する方向で調停が進められた。
その結果、沖縄本島周辺を日本に、宮古列島、八重山列島を清に分割する案で妥協が成り立った。しかし、清側の調印を待つ時点で「救国運動」をする旧士族たちから猛反発を受け、中でも清国へ脱した脱清人とよばれた琉球人のうち、林世功(りんせいこう)(名城春傍(しゅんぼう))はその案に自決をもって反対した。それもあって清は調印を拒み、分割案は白紙に。
林世功たちの墓は北京の琉球国墓苑にある。今回の日本国際貿易促進協会の中国訪問時に、一行の一員だった玉城知事がその墓に詣でたことに、不安の声が一部マスコミに取り上げられた。人民日報系の雑誌が書かれる背景には、このような明治政府による「不都合な事実」があった。冷静に歴史をみつめ、戦争を煽られないことが求められますね。
「救国運動」をした人たちの、その後は次回に。(富樫 守)