
先日、「外部注入論」が話題になった。「外部注入論は間違いだと思うが、僕らが世に何かを問うている時点で何らかの外部注入ではないのだろうか?」
確かに『何をなすべきか』をよく読むと、レーニンは2つの意味で「外から」という言葉を使っている。
1つは、労働者以外の誰か、という意味だ。労働者が独力で社会主義的意識に至ることはなく、「正しい階級意識」はブルジョア知識人が外から持ち込むしかないとレーニンは繰り返し語っている。「この意識は外部からもちこむほかはなかった…社会主義の学説は、有産階級の教養ある代表者であるインテリゲンチャによって仕上げられた哲学、歴史学、経済学の諸理論から、成長してきたものである…マルクスとエンゲルス自身、その社会的地位からすれば、ブルジョア・インテリゲンツィアに属していた」。ここには、〝愚かな民衆は知的道徳的に優れたエリートが指導しない限り、独力で新社会を建設する能力はない〟というトカチョフ以来の伝統的なナロードニキ的意識が色濃く反映している。われわれが反省し、反発してきたのもこういった「外部注入論」である。
もう1つは「工場の外から」という意味だ。「(全面的な政治暴露によって労働者が)他のそれぞれの社会階級の知的・精神的・政治的生活のいっさいの現れを観察することを学びとらないなら…労働者大衆の意識は真に階級的な意識ではありえない」「労働者階級の自己認識は、現代社会のすべての階級の相互関係についての、完全に明瞭な理解…と不可分に結びついている」。他者を通じてしか自己認識はできない、という意味での「外から」である。たとえば、沖縄の現実を知らない限り、われわれの全生活を規定する日米安保体制を理解することはできない。福島を知らずにわれわれの未来を語れないことは言うまでもない。そういう意味で、日常生活圏の「外から」の提起を今でも私たちは必要としている。
『何なす』では、2つの「外から」が渾然一体になっている。「他人を知らないと自分のことはわからない」という正しい命題が、「愚かな君の代わりに知的に優れている私が答を出す」という次元の異なる脈絡に織り込まれている。かつての革共同も、アジア人民との交流を通じてしか日本人が正しい自己認識を得ることはできないという正しい命題を、「抑圧民族として腐敗した日本人はアジア人民に学べ」という議論にねじまげて、労働者を党に従属させる材料に利用した。
今われわれが求めているのは、対等な読者同士が互いに知らないことを教え合い、学び合う紙面だ。そこには「唯一の正しい答」も「注入」すべき対象も存在しない。
