
8月10日、高槻で「子どもたちと考える『戦争と平和』展in高槻・島本」(写真)が開かれた。沖縄戦や「慰安婦」問題などのテーマごとにコンパクトに展示がなされ、多くの参加者が見入ってた。この日の中西幸雄さんによる講演「『満洲』への鎮魂」を紹介したい。
「満州」という用語
そもそもよく知られている「満洲」という用語自体が、中国の土地の名前ではない。中国において、清帝国を打ち立てた女真族が、自らを「Manju」と発音していたことから、この用語が使用されることになったという。当時の外国人が勝手に、他人の土地に名前をつけたに過ぎなかった。
講演では、国策会社であった南満州鉄道=満鉄と、満蒙開拓団という2つの事例を縦糸に、時々の出来事を横糸にして、約40年にわたる日本の「満洲経営」の歴史が明らかにされた。
満鉄は、日露戦争の結果、ロシアが建設した東清鉄道南支線の権益を日本が得たことによる。当時の中国の混乱に乗じて無理矢理に中国侵略を進めたことがよくわかった。
日本から30万人が入植
満蒙開拓団には、最終的に約30万人もの農民たちが日本から入植した。入植地の多くは中国人が暮らす農村だった。当然、うまくいくわけがない。この満蒙開拓団に参加した多くの役人や庶民たちは、当時の政府が示した方向を「まじめに」「ひたむきに」実行した結果、悲惨な棄民政策につながっていったのだ。
多くの庶民や農民が、政府のプロパガンダにのせられていた。この悲惨な運命をたどった人びとの歴史を、講演の中で中西さんは、「所詮は員数、あるいは頭数でしかなかった人びと」と表現した。その意味は、「員数で語るしかできない出来事」ではあったが、そこには、一人一人の人間の選択や判断があり、その中にはそれぞれの責任があったということだ。現代に生きる日本人は、そのことを踏まえて、「満蒙開拓」という侵略の歴史的事実を見つめ直さなければならないという意味として聞いた。
歴史を学ぶ意味
多くの歴史の叙述が、各級指導者の政策や判断の積み重ねとして語られながら、一方で被害者は○万人という数字でしか語られない人びとが存在している。この具体的な中身に迫っていくことが必要だ。
敗戦から78年。世代は代わったが、過ちをまた繰り返さないといえるのか。歴史に学ぶ意味がそこにある。 (秋田勝)
