横山栞央さんが制作した紙芝居「ケイコの8月6日」より

原爆投下から78年目の8月6日、広島市内で「8・6ヒロシマ―平和の夕べ―」が開かれた。平和講演は、きのこの会(原爆小頭症被爆者と家族の会)事務局長の平尾直政さん。被爆証言は書家の森下弘さん。森下さんは、高校教師(被爆教師の会)として証言を続け、平和教材づくりに尽力した。広島市立基町高校の卒業生の横山栞央(りお)さんは、「次世代が伝える平和と広島」について。基町高校の創造表現コースでは、生徒が被爆者から体験を聞き取って原爆の絵を制作している。福島からの避難者で、国と東電の責任を問う訴訟の原告でもある鴨下美和さんは、「被害者の声は未来への警告」と訴えた。

まるで溶鉱炉 森下 弘(ひろむ)さん

私が被爆したのは中学3年生で14歳のときでした。8月6日、私を含めた70人の生徒たちが、「建物疎開」の作業のため、比治山の手前にある鶴見橋のたもとに整列して作業の指示を受けていました。その瞬間に原爆が炸裂したのです。それは巨大な溶鉱炉のなかにスポッと投げ込まれたような感じでした。とっさに身を伏せたのだと思いますが、何も覚えていません。吹き飛ばされたのだと思います。気が付くと、川の中に入っていました。そこで70人いた生徒のひとりは、額や手から皮膚がずるっとむけて、ボロ雑巾のように垂れ下がってました。なんとか対岸の比治山によじ登って、市街地をみると何もかも無くなっていました。
広島サミットには失望しました。核は存在そのものが許されないのです。核と戦争はなくなると信じていますので、命あるかぎり頑張ります。

体験引き継ぐ灯に 平尾直政さん

原爆小頭症とは、母親の体内で被爆し強力な放射線を浴びたことが原因で発症する原爆後障がいの一つ。頭が小さいことなどが特徴で、多くが脳と身体に障がいを持っています。1972年の米原爆傷害調査委員会の発表によると、原爆小頭症の子どもは63人いたとされています。現在存命中の方は12人です。数が少ないのは、母親の被爆死、死産、生まれてすぐに亡くなったというケースが多かったためで、奇跡的に生き残ったのが63人だったのです。原爆小頭児の存在が市民に明らかになったのは、広島のジャーナリストの調査でした。「きのこの会」の発足は1965年でした。胎内被爆者は、「被爆二世」と誤解されることがありますが、原爆小頭症は遺伝によるものではなく、胎内で被爆したことが原因です。その後の子どもは被爆二世です。被爆者の子どもと被爆二世の子どもを抱えた家庭は、結婚差別などさまざまな偏見と差別にさらされました。ある家族は「原爆さえなかったら別の人生があった」と語りました。この人間的悲惨を自分の問題として受けとめることが大切なのだと思います。私はその体験を引き継ぐ灯になろうと決心し、活動を続けています。