見えない核被害者

1954年3月1日、中部太平洋マーシャル諸島付近で操業中の日本のマグロ漁船第5福竜丸がアメリカの水爆実験(ブラボー作戦)に遭遇して被曝した。船員の久保山愛吉さんが亡くなり、それをきっかけに日本の原水爆禁止運動が広まっていった。だが、その時、核実験場にされた太平洋諸島の人びとの存在は日本人の視野に入っていただろうか。
日本は第一次大戦中の1914年にドイツ統治下の太平洋諸島を占領し45年まで支配した。住民は日米戦争に巻き込まれ多くの犠牲を出した。戦後、国連信託統治下におかれ米国の核実験場とされた。そこで何が起きていたのかは、米軍管理による地域全体の隔離政策によって世界の目から隠されてきた。
今、マーシャルの人びとは、核汚染水海洋放出に「太平洋を核のゴミ捨て場にするな」と国会決議をあげ、反対している。

「核の遊び場」

「真珠の首飾り」と称されるマーシャル諸島。米国はその中のビキニ環礁、エニウェトク環礁を核実験場に選び、46年7月から58年まで計67回の原水爆実験を行った。これは広島型原爆の7千発以上に相当する。太平洋地域では96年まで、米英仏3国による合わせて300回の核実験が行われている。自然と共に生きてきた住民は生活を根こそぎ奪われ、健康をむしばまれ、他の島への移住や時には帰島を強制された。米国が行う検診は、治療ではなく「貴重なデータ」収集が目的だった。「住民は文明人ではないが、ネズミより我々に近い」からだ(米原子力委員会の記録)。これを植民地主義、人種差別と言わずして何といおうか。

サバイバーとして

しかし、「豆粒のような小さな島」の人びとは、超大国アメリカに立ち向かっていく。サバイバーとは単に生き残ったという意味ではない、加害責任を追及し、たたかい続ける決意が込められていると著者はいう。70年代初め、彼らは日本の原水禁運動と出会い、世界大会にも参加して核被害を自ら国際社会に開いていった。これは「ビキニを忘れ、『唯一の被爆国』」に絡め取られていた日本の運動の質的転換でもあった。その経緯が詳しく述べられている。
日本では「ビキニデー」という3・1は、マーシャル諸島共和国の公休日だ。2003年からその名称が「核被害の記念日」から「核のサバイバーの記念日」となった。核被害者団体の中心で活動してきた女性たちの要求からだった。

3・11にひきつけて

著者は1998年学生時代に初めてのマーシャルを訪問した。それから15年、時には数カ月、住民と生活を共にしながら証言を聞き取っていく。一方で加害側の米公文書を探索、分析し、それを証言と重ねて「隠された核実験の真実」に迫っていく。本書はその博士論文を改訂し単行本としたもので450頁の大部であるが、「見えない、見てこなかった核被害」を読む者の前に突きつける。
「唯一の被爆国」といいながら、戦後70年以上も「米国の核の懐に抱かれて」原発大国となった日本は今、3・11に直面する。核被害の見えない領域は長い間に徐々に姿を現す。核被害は線引きできるものではない。福島第1原発事故を「放射線被曝をめぐる歴史」の中に位置づけ、「ヒバクを背負って生きてきた世界の人びとの生活知をくみ取る」ことが必要ではないかと著者はいう。
14年3月、マーシャル諸島共和国副大統領(当時)トニー・デブルムさんは、訪れた福島県の学生たちにこう語った。「否定し、ウソをつき、機密にする。マーシャル諸島でなされたことが福島でも繰り返されている。これが核の文化だ」と。3・11から12年、私たちの立つべき視座を問いかける本だ。(新田蕗子)