通貨政策の難しさ

通貨論ほど個別政策次元で論じるのが難しい分野はない。通貨政策はブルジョア的には素人が口出ししてはならない専門家の領分とされ、左翼業界では金という「一般商品」の分析をもって事足りるとされたため、既成政党や学会いずれの次元でも空白に近い。最近は「国家は無制限に通貨を発行できる」というMMT理論(Modern Monetary Theory)が流布されているが、金融市場の信用を失えば通貨が暴落することは明らかで、素人目に見てもその胡散臭さは拭いがたい。こんな暴論が飛び出すほど通貨論は社会的に未消化だということであろう。シュトレークが通貨について優れた歴史的分析を提示しているが(※4)、これによれば様々な社会的圧力の複合した結果が今日の金融システムであり、容易な糸口をつかめないことがよくわかる。
いずれにせよ、通貨と金融市場をいかにすべきなのか、という未踏の領域がわれわれの前に横たわっていること、通貨問題は市場の自己調節メカニズムから自然と労働を保護するというテーマと不可分であることをここでは確認しておきたい。

資本主義の未来予測

ウォーラーステインによれば、未来予測は困難でも、一般的な傾向は抽出できる。資本主義の歴史的限界は、利潤率がもはや回復する兆しを見せない点に明らかだという(※5)。これは数多くの著名な識者が共通して指摘する事柄でもある。資源の希少性などを要因に挙げる場合もあるが、いずれにせよ利子率の低下は拡大再生産の不可能性を示し、まして人口が減少する日本社会でこれ以上の経済成長は不可能だ。一般的に「脱成長」と言われているが、成長を前提としない経済・社会システムを一からつくる必要がある点で資本主義に批判的な論者の意見は一致する。ただし、具体的にどうすることが「脱成長」なのかという点では、細かい提起はいくつかあるものの、ほとんどの人にとってよくわからないのが正直なところであろう。
「脱成長」に向けた提言をまとめる段階にはないと思うが、否応なく新しいシステムの構築を迫られる局面は存在する。ウォーラーステインは、ブルジョア革命で資本家が封建貴族を打倒したのではなく、貴族階級がブルジョアジーに変身したのだと指摘した。同じようにブルジョア社会もまた、利潤率の低下という現実に規定されて、資本家が資本家ではない何者かに変わっていく可能性があるというのだが(※6)、実際、私たちのまわりでそういう傾向を観察することができる。
アメリカで「多元的共有財産」の展開が進んでおり、労働者株式所有企業(ESOP)がすでにGNPの10%におよぶことは以前本紙でも紹介した(※7)。日本でも似たような動きが進んでいる。昨年施行された労働者協同組合法の含意は、〝もはや利潤が上がらない分野を営利企業は担えないが、社会の存続に欠かすわけにもいかない領域は住民が自力で勝手にやってくれ〟ということであろう。現在は主に介護や清掃が対象とされているようだが、地方公共交通なども軒並み赤字だとしきりに報じられている。これも何らかの形で公営化しない限りもたないだろう。
実は日本でもっとも協同化が求められているのが農業分野ではないかと最近私は思っている。農産物市場が自由化された現在、構造的に農業では儲からないため、農家の事業後継が困難になっている。日本の農業と農村は崩壊の縁にある、と危機感に駆られた全国の農協・自治体の職員が、私有財産相続の限界を超えて次世代に農地と農業経営を継承するため、就農希望者と農地のマッチング、法人化を通じた農地の共有と継承に全力で取り組んでいるという(※8)。
資本が放棄した領域を社会的企業が埋めていく「連帯経済」の動きは世界的に共通する。もともと儲からない領域なので容易なことではないが、われわれも日本的な条件に即した「陣地戦」を通じて資本が撤退した領域に歩を進めることが求められている気がする。アルペロヴィッツは「スモールd」(地方レベルの民主主義)が広がれば「ラージD」(国政レベルの民主主義)が見えてくると言ったが(※9)、日本で協同組合のネットワークが広がれば次のステップも自ずと見えてくるのではないだろうか。

米覇権システムと
    「平和憲法」

利潤率低下の別の表れでもあるが、アメリカを中心とした覇権システムの動揺が今日多くの問題の起点となっている。(第1回)で論じた通貨・金融問題も、具体的な次元で語れば基軸通貨ドルの世界支配問題であり、世界中の富を米国に還流させるアメリカ中心の金融システムという問題である。日本は日米構造協議でアメリカに言われるがまま金融市場を開放してきたのであり、小泉政権で焦点化した郵政民営化にしても、アフラックやゴールドマン・サックスの要望を受けた米政府が「年次改革要望書」で郵政民営化を強く要求したことが最大の動因だった。
これは金融分野に限らない。貿易、保険、雇用、流通その他あらゆる分野で、米国の政府と産業界が日米構造協議などを通じて指示を下し、日本側からこれを断ることは困難な関係にある(現在は「日米経済対話」が継続的に行われている)。「農業切り捨て」と言われる日本農政もアメリカの農業政策を抜きに理解できない。地域商店街をシャッター街に一変させた大店舗法の改定もやはりアメリカの要求だった。
日本という国家が事実上何の決定権ももたないのが軍事・外交の領域である。日米安保法制と日米地位協定こそ日本国憲法の上に立つ最高規範であること、在日米軍には日本の国家主権が及ばず、治外法権状態にあることが近年さまざまに論じられている(※10)。戦後日本の本質は米国の属領、衛星国であり、一定の自立性や「独立国家」の体裁はあっても、基本的な決定権は米国が握ってきたということである。     (つづく)

(※4)シュトレーク『資本主義はどう終わるのか』
(※5)I・ウォーラーステイン他『資本主義に未来はあるか』(唯学書房)
(※6)ウォーラーステイン『脱=社会科学 一九世紀パラダイムの限界』(藤原書店)
(※7)(※9)「アメリカでの『多元的共有財産』の拡大」(『フラタニティ』19号、『未来への協働』352・353号に再録)
(※8)「後継者難にあえぐ日本農業 協同化は打開策となるか」(『未来への協働』357号)
(※10)例えば孫崎享『戦後史の正体』(創元社)、前泊博盛『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』(同)、吉田敏浩『「日米合同委員会」の研究』(同)など。