
司法・立法こそ国際人権法を学ぶべき
「国際人権」とは日本社会の人権水準の低劣さに対して、国際人権のスタンダードを対置することだ。それはレベルの問題だけでなく相当質的に違うということを教えられた。
日本の人権は、「弱者への思いやり」と「自己責任」に閉じ込められ、「政府や行政の人権保護の義務」が密封され、「国民相互の問題」に歪曲されている。人権は本質的に国際問題である。安倍元首相が「法的拘束がなく、従うべき義務がない」と閣議決定で対抗する厚顔無恥。世界110カ国にある人権救済機関が、未だに日本には存在しない。個人通報制度が使えない「先進国」は日本だけ。日本は、2017年に国連人権理事会の「普遍的定期的審査」の217の勧告を受け、145を「受け入れ」たが34件を拒否した。韓国は218の勧告に「受け入れる」か「留意」で、拒否がゼロ。この違い、この異様さ。〈人権最貧国〉は、私たち自身の重要な課題だ。
関西生コン労組弾圧の裁判で「日本の裁判官は労働法を勉強しなくてもよく、産業別労働運動への理解がほとんどない」と、よく言われる。司法試験は公法、民事、刑事の必須科目と労働法、環境法、租税法、国際公法など8つの選択科目から一つを選ぶ。国際人権法は、国際公法の一部であり、国際公法を選択する者は合格者の1・3%に過ぎない。行政だけでなく、司法・立法こそ国際人権法を学ぶべきだ。
防げた死
入管問題では、入管施設への「収容」は「恣意的拘禁」にあたり、自由権規約9条違反。迫害を受ける恐れがある国への送還は、国際的に禁止されている(ノン・ルフールマン原則)。このような国際ルール違反が放置されている根拠に、マクリーン最高裁判決(1978年、外国人に対する憲法の基本的人権の保障は「外国人在留制度の枠内」で与えられ得るという判決)を国が乱用・振り回し、入管法を憲法より上位に位置づける転倒が起きていると教えられた。
最後に、ウィシュマさんの死は、政府が国連人権勧告を真摯に受け止め改善していたら、防げたはずだと言う。ウィシュマさんの死の責任・反省を機に、藤田さんの『武器としての国際人権』を学び、声を上げていかねばならない。 (村井)
